2017年5月28日日曜日

ザッカーバーグ卒業式スピーチその2

今日、僕は世界に「目的感」を持ってもらうための3つの方法についてお話します。

その1・一緒に大きくて意味のあるプロジェクトについて語ること
その2・”平等性”を再定義して誰もがその目的に参加する自由を持てるようにすること
その3・世界規模のコミュニティを創り出すこと

です。

まず、「大きくて意味のあるプロジェクト」についてお話しましょう。

僕らの世代は、数千、数百万の仕事が自動運転車や自動トラックのような自動化技術によって置き換えられていく事態に対処しなくてはいけません。しかし、私たちはもっとそれ以上のことができるはずなのです。

どんな世代にも、その世代を特徴づける課題があります。30万人以上の人が、一人の人間を月に送るために働きました・・・清掃員さんも含めてね。百万人以上のボランティアの手によってポリオへの免疫を子供たちに獲得させることができた。百万人以上の人がフーバーダムを作った・・・などなど。

これらのプロジェクトは、その仕事をやった人たちに生きる目的を与えただけではありません。国全体に、「俺達は偉大なことができるんだ」というプライドを与えたのです。

次は僕ら世代の番です。あなたは「ダムの作り方なんて知らないし、百万人を動員する方法なんてわかんないよ」って思ってるでしょう?

しかし、秘訣をお教えしましょう。誰もそれを始めたときは知らないんです。アイデアはいきなり完成形でやってきたりしない。それについて取り組んでいるうちにだんだんクリアになってくるんです。とにかくまずは始めなくては。人と人を繋ぐ方法を最初から全部わかってたら、僕はフェイスブックを始めなかったでしょう。

映画やポップカルチャーは、ここのところがわかってません。「そうかわかったぞ!(エウレカ!)」と叫ぶ奇跡の一瞬があるというのはキケンな嘘です。自分にはそんな瞬間なかったぞ・・・と居心地の悪い思いをさせてきます。その嘘によって、「将来大きくなるはずのアイデアのタネ」を持っている人がとにかくそれを始めることを辞めてしまうかもしれない。あ、そうそう、イノベーションについて映画が間違ってることがもう1つあった・・・「誰も数学の方程式を窓ガラスに書いたりしません」。

理想主義的であること自体は良いんです。しかし、誤解しないようにしなくてはいけません。大きな目標に向かっているすべての人は狂人扱いされます。たとえ最後には正しかったとわかる場合でもね。複雑すぎる課題に向かっているすべての人が、その人が自分がやってることをちゃんと理解してないとか言って責められます。事前に全部わかってるなんてことが全く不可能な場合であってもです。

イニシアティブを取るすべての人が、急ぎすぎだと非難されます。いつだってもっとゆっくりさせたい人たちがいるからです。

僕らの社会では、あまりにミスを恐れるあまり、もし何もせずにいたらそもそも全てがダメになってしまうということを忘れてしまって、結局何もせずにいてしまうことがよくあります。そりゃ何をやっていても、それなりに未来に課題はうまれますが、しかしだからといって、僕らが「それを始める」ことを辞めてはいけません。

じゃあ僕らは何を待ってるんですか?「僕らの世代の課題」に取り組むべき時です。数百万人の人々をソーラーパネルの製造と設置に巻き込んで、気候変動問題を止めるというのはどうでしょう?すべての病気についてボランティアを募って彼らのヘルスデータと遺伝子データを集めるというのは?今日僕らは病気になる前に診断して対処するよりも50倍以上もの費用をかけて治療をしています。そんなことは馬鹿げていますね。なんとかしましょう。

オンラインで投票できるようにして民主主義を現代化するというのは?あるいは教育を個人化してすべての人が学べるようにするのは?

これらの課題はもうすぐ手が届くところにあります。すべての人に役割を与えるプロセスの中で、キッチリ全部実現させてしまいましょう。ただ「進歩」を実現するためだけでなく、多くの人のための「目的」を創り出すために。



さて、「大きくて意味のあるプロジェクト」の話が、あらゆる人が人生に目的を持てる世界を作るための一つ目だったとして、二つ目は、”平等性”を再定義して誰もがその目的に参加する自由を持てるようにすること・・・です。

僕らの両親の世代の多くの人は、そのキャリア全体において安定した仕事がありました。しかし今はすべての人が”起業家的”です。何かスタートアップをやってる人にしろ、組織にポジションを得てる人にしてもね。それは凄いことです。僕らの社会の起業家精神は、これだけの進歩を作り出した方法そのものですから。

起業家文化は、多くの新しいアイデアを簡単に試せるようになっている時に栄えます。フェイスブックは僕が最初に作ったプロジェクトではありません。僕はゲームも作ったし、チャットシステムも作ったし、スタディツールも、音楽プレイヤーも作りました。こういうのは僕だけの話じゃないです。JKローリングはハリーポッターを出版できるまでに12回も断られました。ビヨンセですら!”Halo”を作るまでに何百曲と作ったんです。大きな成功は「失敗する自由」によって生まれます。

しかし今日、僕らの社会はどんな人にとっても問題であるほどの富の格差問題を抱えています。もし”ある人”がそのアイデアを実行に移す自由がなかったら、それは”僕ら全員にとっての”損失です。

今の僕らの社会は既に実現した成功に報いることを過剰に評価しすぎる一方、あらゆる人が十分にチャレンジできる余地を与えることはできていません。

そのことを直視しましょう。僕がこのキャンパスを去って10年以内に何十億ドルと稼げた一方で、何百万もの学生がその学資ローンの支払いにも困っていて、小さく彼らのビジネスを始めることすらできていていない。そんな社会は、どこかが間違っている。

僕は色んな起業家を見てきて、その仕事じゃあ十分稼げないから辞めたっていう人は一人も知りません。しかし、それが失敗した時に致命的なことにならないようにする緩衝材としての経済的余裕がないために夢を追うこと自体をそもそも諦めてしまう人は沢山見てきました。

良いアイデアと、ハードワークがあれば必ず成功するわけではないことはみんな知っています。それだけじゃなくて運も必要です。もし僕がコードを書くかわりに家族を支えなくてはならなかったら、そしてもしフェイスブックがうまくいかなくっても死ぬわけじゃないってことがわかってなかったら、今日僕はここにいないでしょう。実際の話、今ここにいる人はそれだけで既に相当ラッキーな生い立ちなのです。

すべての世代が、「平等」という言葉の定義を押し広げてきました。上の世代は、投票権と公民権について戦った。それらはニューディール政策とグレイトソサエティ政策に結実しました。今、僕らの世代が僕らの世代の新しい社会契約を結ぶべき時なのです。

これからは、GDPのような経済的指標だけでなく、どれだけ多くの人間が、意味のあると感じられる人生を送れているか・・といった指標で社会の進歩を測っていくべきです。だれもが自分の新しい挑戦ができる余地が与えられるような、ユニバーサルベーシック・インカムのような制度が検討されるべきだ。

一生のキャリアの中で働く会社を何度も変えなくてはいけない時代だから、1つの会社に紐付けられていない形の、多くの人にとって手の届く育児とヘルスケアの仕組みが必要です。

誰しもがミスをします。だからこそ僕らには失敗者が身動きできなくなったり、汚名を着せられて社会的に抹殺されたりしない社会が必要です。そしてテクノロジーが変化し続ける時代ですから、若い頃に一度だけの教育でなく生涯に渡って変わり続ける教育にもっとフォーカスした仕組みが必要です。

そして、そう、あらゆる人にその目的を追う自由を与えることはタダではできません。僕のような人間がそのコストを支払わなくてはならない。そしてあなたがたの多くも、そうすべきだし、実際にすることになるでしょう。

だからプリシラと僕は、チャン・ザッカーバーグ・イニシアティブを始めて、僕らの財産を機会均等の推進のために使っています。これが僕らの世代の価値観です。僕らはこれをやるかどうかについては、一度も疑ったことがありません。問題は”いつ”やるかだけでした。

ミレニアル世代は、最もチャリティに前向きな世代の1つです。1年の間に、4人中3人のミレニアル世代が何らかの寄付をし、10人中7人が何らかのチャリティ基金を呼びかけています。

しかし問題はお金のことだけではないのです。時間のこともある。週に1時間か2時間あれば、誰かに手を差し伸べることはできます。その人がその人の潜在的可能性に到達できる手助けができるのです。

そんなに時間取れないよ・・・と思うかもしれない。プリシラがハーバードを卒業した後彼女は教師になりました。そして彼女と教育関係の仕事を始める前に、彼女は僕に一度クラスを持ってみるべきだと言いました。僕は文句を言いましたよ・・・いや、っていうかね、僕も結構忙しいんだよ。この会社経営してるんだし・・・ってね。

でも彼女がどうしてもというので、地元の少年少女クラブでの中学生の起業についてのクラスを教えました。

僕はそこで製品開発やマーケティングについて教えて、彼らは僕に、自分の人種が社会から目の敵にされることや家族の一員が刑務所にいるってことがどういう感じなのかを教えてくれました。

僕は自分の学校時代のことを話しました。そして彼らも、いつか大学に行ってみたいという希望について語ってくれました。それから5年たちますが、僕は彼らと毎月食事をしています。彼らのうちの一人は、僕とプリシラにとってのはじめてのベイビーシャワーパーティを開いてくれました。そして次の年、彼らは大学へ行きました。一人残らず全員がです。彼らの家族でははじめてのことです。

僕らは誰しも、誰かに手を差し伸べる時間を作れます。すべての人に、自分の目的を追える自由を与えましょう。それはそうすることが正しいことだからというだけではありません。そうすることで、より多くの人がそれぞれの目的を追求できたら、僕らの社会全体がよくなるから、そのためにやるのです。それが理由なんです。



さて、目的感は仕事からのみ来るものではありません。3つめの話は、コミュニティを作ることでみんなに「目的感」を与えることができるという方法です。そして僕らミレニアル世代が「everyone」という時、それは「(アメリカ国内だけでなく)世界中のみんな」のことです。

外国から来た人、手を上げてもらえますか?じゃあ、彼らと友達になっている人はどれだけいますか?・・・この通り僕らは「繋がっている時代」に育ってきたんです。

ミレニアル世代に、自分たちのアイデンティティを問うと、最も多い回答は「国籍」ではなく宗教でもなく民族でもなく、「世界市民」だという調査結果があるそうです。これは凄いことだ。

すべての世代が、「ぼくたち・わたしたち」という概念を押し広げてきました。僕らにとっては、ついにそれが世界中に広がることを目指しているわけです。

人類の歴史は、小さい集団からより大きな集団へ、部族から都市へ、そして国へ・・・と多くの人間が寄り集まり、協力しあうことで今までできなかったことを可能にしてきた物語であることを、僕たちは知っています。

そしてその最も大きなチャレンジが、今まさにグローバルに展開していて、僕らはまさに貧困や病気を終わらせることができる世代でもあるのです。そのためには世界中からの協力を得ることも必要です。気候変動問題や世界的な感染症の拡散問題について、どの国も一国だけで対処はできません。今目前にある問題は、都市単位や国単位でなく、グローバルコミュニティレベルでの協力関係が必要な課題なのです。

しかし、僕らは不安定な時代に生きています。世界中にグローバリズムに取り残されたと感じている人たちがいる。もし自分が暮らしているホームグラウンドで自分たちがちゃんと良く生きられていると感じていない時、世界のどこか他の場所の人たちのことまで考えるのは難しいです。そういう時には内向き志向の圧力が高まります。

これは僕らの時代の課題です。自由と開かれたグローバルコミュニティと、権威主義や孤立主義、そして国家主義との争い。知と交易、移住する人の流れを促進していく力と、それをスローダウンさせようとする力とのぶつかりあい。これは国同士の争いではなく、考え方同士の争いなのです。どんな国にもグローバルな繋がりに賛同する人がいるし、またそれに反対する「良い人たち」もいます。

これは国連で何か決めたりできるような問題ではありません。もっとローカルなレベルで起きていることです。もし十分な数の人間が自分自身の人生に目的と安定を感じて生きられているとしたら、その時人類は「他の地域の人たちの問題」についてケアしあうことも可能になるのです。

だからこそ最善の対処法は、今ここで、ローカルなコミュニティを立て直すことなのです。

人間は人生の意味をコミュニティから得ています。エリオットハウスの人?ハーバードロー?そりゃあなたたちは自分たちがトップだって感じられるでしょうね。母親たちは?

それがどんなものでも家だったり、スポーツチームだったり、教会だったりアカペラグループだったり、それらは自分がより大きな何かの一員であることを、そして一人じゃないってことを教えてくれます。それによって僕らは自分の可能性を押し広げる強さを得ることができる。

だからこそ、この10年であらゆる社会グループが4分の1も減少したことが致命的なことなのです。世界にはそれ以外のところで何とか人生の目的を見出さなくてはいけない人たちで溢れている。

しかし、人間はもう一度コミュニティを立て直すことができるし、多くの人はすでにそうしています。

僕はアグネス・イゴイェに出会いました。今日の卒業生です。アグネス、どこにいます?アグネスは子供時代を、人身売買の横行するウガンダの紛争地帯で過ごしました。そして今彼女は、ローカルコミュニティの安定に寄与する数千もの法律家のトレーニングをしています。

また、ケイア・オークリーとニハ・ジェインにも会いました。二人も今日の卒業生です。ほら、立って。ケイアとニハは慢性病に苦しんでいる人たちの、コミュニティ内部での助け合いの関係を繋ぐ非営利団体を立ち上げました。

そしてデイヴィッド・ラズ・アザール、ケネディスクール(政策大学院)を今日卒業した・・にも会いました。ほら、デイヴィッド、立って!彼は元市議会議員で、メキシコシティをラテンアメリカで最初の「婚姻の平等」を実現した都市に・・・サンフランシスコよりもはやく!導きました。

そしてこれは僕の物語でもあります。寮の部屋のある学生が、まずある1つのコミュニティを繋ぎ、そしてそれが世界中に広がっていったのです。

変化はローカルに始まります。グローバルな変化も最初は小さく始まる。僕らのような、僕らの世代において、もっと多くの人を繋ぐことができるかどうか、僕らの最大の課題が実現できるかどうかは、全てこのことにかかっているんです・・・あなたがコミュニティを創り出し、そしてありとあらゆる人が、自分の人生に目的感を感じられる世界を創り出すことができるかどうかにね。



2017年クラスのみなさん、あなたがたは、「目的」を必要としている世界へと飛び込んでいきます。それが創り出せるかどうかはあなた方次第なんです。

そんなこと本当にできるかなあ!?って思っていますか?

僕が少年少女クラブで教えたクラスの話を思い出して下さい。ある日授業の後で、僕は彼らに大学の話をしました。そして彼らのうち最も優秀な一人が手を上げて、自分は不法移民だから大学に行けるかどうかわからないと言いました。彼が大学に行けるかどうか彼にはわからなかった。

去年僕は彼を誕生日に朝食に誘いました。何かプレゼントをあげたかったので何がいいか聞きました。そしたら彼は苦労している学生たちのことを話し始め、社会正義に関する本が欲しいかな・・・と言ったんです。

僕はびっくりました。彼は人生についてシニカルになってしまっても当然な状況にいるんですよ。国が自宅に電話かけてきて、彼の大学への夢を断ってしまうかもしれない状況にいる。でも彼は自分を悲観したりしません。彼は自分のことを考えてすらいない。より大きな目的感の中で生きていて、人々を巻き込んで行くのでしょう。

彼の未来を危険にさらすことになるのでここで彼の名前すら言うわけにはいかないような社会状況ではありますが、しかしもしある高校の上級生が、その人の分社会を前に進める未来がわからずにいるなら、他の僕ら全員がそれを代替していく責任を負うことになるのではないでしょうか!?

このゲートを出て来る前に、メモリアルチャーチの前で、僕はミ・シャベイラの祈りを思い出していました。それは僕が困難に直面した時にいつも唱える祈りです。自分の娘をベッドに連れていく時に彼女の未来を思っていつも歌っている祈りです。それはこう続きます。

「私たちに先立つ者たちに祝福を与えてきた力の源よ、私たち自身の人生に祝福を与える勇気を見いだせるよう助けてください。」

みなさんがそれぞれの人生を祝福する方法を見いだせることを願っています。

2017年クラスの皆さん、おめでとうございます!グッドラック!

(スピーチは以上です)



・・・いかがでしたでしょうか。

正しいことだからやるんじゃなくて、自分の可能性を追求できずにいる人が一人でもいたらそれは社会の損失だし、その人がそれを実現できたら社会全員が助かるからこそやるんだ」というメッセージ・・・この論法はついつい縮小均衡的な自己規制に走ってしまいがちな日本人・日本社会にとって、非常に眩しく映る「アメリカならではの価値」だと思いました。

それにザッカーバーグは本当に良い人感があって・・・最後の方で不法移民の生徒が大学に行けるかわからずにいる状況でも未来を信じている話で、彼が彼の可能性を追求できないなら、社会全員がその分をなんとか頑張って埋め合わせる責任があるってことじゃないでしょうか!!って言うシーンではもう本当に涙目で、感情を抑えきれなくなっています。聴衆もアツくなって歓声を上げている。

ただなんというか、懐疑主義な日本人からすると全体としてナイーヴすぎる感じが、特に細部の具体的な話に近づいてくると散見されるという感じは、どうしてもあるかもしれません。自分は大学中退しておいて、大学教育ってものに夢持ちすぎじゃないか?とも思いますし、非常に恵まれた立場の人間が、非常に困難な状況にある数少ない人たちとの交流の中で、「これをもっと横展開していけば世界は変えられる!」と無邪気に思い込んでいる感じ・・・に、危ういものを感じる人もいるかもしれない。

物凄くシニカルに言えば、「古代の王様の道楽で身の回りの奴隷に情けをかけてやっているが、それは絶対王と”ほんの少数の身の回りの人たち”というスケール感だからできていることで、圧倒的に大きな数の社会的な構造問題には無力なんだ」という批判は可能かもしれません。

しかし、だからといってその「夢か偽善か知らんがそれすらなくなった社会よりはあった方が当然いい」というところに、現代の、世界中から非難されながらもなんとか世界のリーダーの地位から滑り落ちずにいるアメリカの存在意義というものもあるのだろうと思います。

そして、ソレに対してシニカルにならざるを得ない社会にいる私たち日本人は、「その足りないところを補い、自分たちなりの貢献」ってものができればいいなと、私はいつもそういうことを考えて生きています。

この記事の冒頭にも書きましたが、ザッカーバーグのこの「物凄い理想主義」がどういう時にすっ転んでしまうのか、それを掛け声倒れに終わらせずに本当に「具現化する」ために日本社会ならではの提供出来る価値とは何か・・・ということについて昔書いた記事があって、相当評価を頂いたものがあるので、もしよければ多少長いですが、お読みいただければと思います↓

我々が起こすべき「静かなる革命」について・・・または「知性とは文脈力・空気を読む力」という時代の終焉

ただ正直言って、このリンク先↑の話のレベルまで「アメリカ人」は決して理解できないだろうとすら思っていたのに、ザッカーバーグは彼なりのビジョンを透徹しながら同じ問題について切り込もうとしているのを感じて、今回本当に「単なるやり手経営者」ってだけじゃない凄い人なんだなって思いました。よもやユーチューブを再生しはじめた時には、最後までスマホにかじりついて見ちゃうなんて思ってもいなかったんだけど。まさに、例のジョブズの演説を超える、今の時代の決定版スピーチみたいな何かを個人的には感じました。

あなたはどうお感じになりましたでしょうか?よかったら、私のツイッターに話しかけていただくか、私のウェブサイトのコンタクト欄などから、感想・その他アンタ翻訳間違ってるぜというご指摘等(最後に近づくほど集中力が消えてきてて、結構ミスもあるように思います)、いただければ幸いです。



それでは、また次回お会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
公式ウェブサイト
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