2017年5月21日日曜日

原発を止めると左遷…エリート裁判官たちが抱える「大苦悩」 裁判官の世界はこうなっている


岩瀬 達哉
ある裁判官が「人命と電気代を天秤にかけることなどできない」と判決文に書いた時、多くの日本人が深く共感した。だが裁判官の世界では、そうした「普通の感覚」を持つ人ほど、冷遇されてしまう。

止めては動かすの繰り返し

「裁判官人生を振り返ってみると、僕なりに日和ってるんですよ」
元裁判官で、弁護士として福井原発訴訟弁護団長を務める井戸謙一(63歳)は、滋賀県彦根市の事務所でこう語った。
かつて井戸は、金沢地裁の裁判長として、2006年3月、北陸電力の志賀原発2号機(石川県)の運転差し止めを命じている。東日本大震災によって、東京電力福島第一原子力発電所が過酷事故に見舞われる5年前のことだ。
「裁判官になった以上、地裁の裁判長(部総括)にはなりたかった。いずれ重大な、社会的に意味のある事件を審理したいという思いはありましたから、自己規制もした。もちろん、裁判で判決を書くにあたって、自己規制したことはない。
しかし、司法のあるべき姿を議論する裁判官の自主的な運動に関わっていながら、目立つポジションを避けてきたんですね」
任官から23年目、48歳の時、井戸は、志賀原発の訴訟を担当する。
「あの時点では、原発訴訟は住民側の全敗ですからね。まあ、同じような判決を書くんだろうなぐらいのイメージだった。
でも、いろいろ審理していくと、電力会社の姿勢に危惧される面があった。さすがにこれだけ危険なものを扱うのに、この姿勢ではダメだろう。やる以上は、もっと耐震性を高めてから稼働させるべきというのが、あの判決の趣旨なんです」
Photo by GettyImages
政府が国策として進める原発事業の是非を、選挙の洗礼を受けていない裁判官が、わずか3名で判断するのは勇気のいることだ。
まして、電力の安定供給にかかわる重要政策であり、日本経済に打撃を与えかねない。ほどほどのところで妥協すべきという空気が、裁判所内には蔓延していた。
「社会的影響や予想される批判を視野に入れると、重圧と葛藤に苛まれ、身動きがとれなくなってしまう。だから、法廷の中だけに意識を集中するようにしていました」
そして井戸は、さりげなく言い添えた。
「原発訴訟の弁護団長をしていて、つくづく感じるのは、原発の再稼働を容認する裁判官の多くが、法廷外のことを考え過ぎているのではないかということです」
福島原発の事故後、全国の裁判所に提訴された再稼働差し止めの訴訟は、35件。これまでのところ、住民側が勝訴したのが3件、電力会社側に軍配が上がったのが5件である。
判決の分かれ目は、福島の事故後、あらたな政府機関として設立された原子力規制委員会の「新規制基準」への裁判官の評価の違いだ。この規制基準を、信頼できると見るか、この程度では安全性を確保できないと考えるか。この違いが、判決を分けてきた。
「新規制基準」への裁判官の評価の違いが、もっとも端的に表れたのが、高浜原発(福井県)の運転差し止め訴訟だ。
2015年4月、運転差し止めの仮処分を認めた福井地裁の樋口英明裁判長(64歳)は、「新規制基準は緩やかすぎ、これに適合しても本件原発の安全性は確保されない」と言い渡した。
樋口は、2014年5月にも大飯原発(福井県)の運転差し止めを命じている。その判決文で「極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題とを並べた議論の当否を判断すること自体、法的には許されない」と述べるなど、裁判所の役割の重大さと責任の重さを、世に示した。
その樋口裁判長の、後任として福井地裁にやってきた林潤裁判長(47歳)は、関西電力の異議申し立てを認め、「樋口判決」を取り消した。同判決文で、林裁判長は「原子力規制委員会の判断に不合理な点はない」と述べている。
要するに、「新規制基準」は信頼でき、その基準に沿って、安全性を審査した原子力規制委員会の判断に問題はないとするものだ。

原発を止めると左遷される

そして高浜原発は、2016年1月から再稼働するが、この判決の影響をもっとも受けたのは、住民でも電力会社でもなく、原発訴訟を担当している裁判官たちだった。
「原発を止めた樋口裁判長が、名古屋家裁に飛ばされたのを見て、支払うべき代償の大きさを意識しない人はいなかったはずです」(ある若手裁判官)
家裁は、離婚や相続などの家庭や親族間の問題を扱うため、地裁のように社会的に注目を集める事件や、憲法判断をともなう重要事件を担当することはない。
ベテラン裁判官が「家裁送り」になるということは、第一線から外されるに等しい。これは、口にこそ出さないが、裁判官の誰もが抱いている思いである。
一方、原発を止めなかった林裁判長には、望ましい処遇が巡ってくると予想する裁判官は少なくない。
「でなければ、原発訴訟で裁判官を統制できなくなりますから」
こう語るのは、林裁判長をよく知る元裁判官だ。
「もともと林さんは、任官以来、エリートとして走り続けてきた人で、将来、最高裁入りするだろうと言われていた。
ところが、ここ10年ほどは遅れが出はじめていて、宮崎地裁や福岡地裁を『遍歴』してるんです。本籍ともいうべき東京に戻してもらえない。少なからず焦りはあったはずです。
それだけに、福井地裁への異動を告げられた時、そこで果たすべき役割を忖度し、それを果たす意欲を胸に赴任していったはずです」
林裁判長は、司法試験と司法研修所の卒業試験が、ともに上位でないと赴任できないとされる東京地裁が初任地で、その後、最高裁事務総局の「局付」課員に引き上げられている。
最高裁事務総局は、全国の裁判所を運営する規則を定め、裁判官の人事を差配するなど、組織の中枢部門である。
そこに、「局付」として配属されることがエリートの証であることを、第11代最高裁長官で、「ミスター司法行政」の異名をとった矢口洪一は、政策研究大学院大学作成の「オーラル・ヒストリー」の中で語っている。
矢口は、強烈な個性の持ち主で、乱暴で独善的なところがあったが、上司や政治家の受けは良く、早くから最高裁事務総局で取り立てられてきた。
民事局長、人事局長、事務総長などを歴任し、ほとんど裁判部門に出たことがない。矢口の裁判官人生の7割近くはここ事務総局での勤務で占められている。
「ほんの極々一部の人は教官(註・司法研修所教官)になったり、調査官になったり、事務総局に入ったりします。局付になりますと、ちょうど行政庁の属官になったのと同じような意味において、いろいろなことをやります。
『大蔵省との折衝は、こうなんだな』『予算要求というのは、こういうものなんだな』『定数の要求とは、こういうものなんだな』ということが分かるし、国会に対する資料作りとか、いろいろなことをやるわけです」
まさに、全国の裁判所を管理、運営するための特別の教育を受けるのが「局付」なのだ。
Photo by GettyImages

エリートの中のエリート

しかし、なぜ林裁判長は、突如、エリートとしての歩みに遅れが出だしたのか。
林裁判長と面識のある若手裁判官によれば、「林さんの趣味の、ヒップホップ・ダンスが原因」という。
「林さんは、『ダンシング裁判官』とあだなされるほど、ダンス好きで、夕方、裁判所の弁論準備室等を使い、書記官や司法修習生を引き連れては、よくダンスに興じていた。
あくまで自主的な集まりで、強制はなかったようですが、職員でない司法修習生を引き連れてのダンスに、眉をひそめる裁判官は少なくなかった」
裁判所に限らず、どの組織にも妬みや嫉みが渦巻いている。仕事以外のことで、評判を落とし、それが人事評価に跳ね返っていたというのは、じゅうぶん考えられることだ。
原発訴訟の特徴は、原発の立地県の住民だけでなく、事故が起こった際、その影響を受ける他県の住民もまた、行政区域を越えて、運転差し止め訴訟を起こせるところにある。
高浜原発にしても、事故が起これば琵琶湖が汚染され、滋賀県民が被害を受ける。そのため、高浜町から65km離れた大津地裁にも、林裁判長が稼働を認めた高浜原発の運転差し止め訴訟が持ち込まれた。
これを審理した、大津地裁の山本善彦裁判長(62歳)は、住民側の訴えを認め、高浜原発の運転差し止めの仮処分を決定している。これによって、いったんは稼働した原発は、再び運転停止を余儀なくされることになったのである。
山本裁判長をよく知る裁判官は、「彼は、おとなしく、目立たない人ですが、記録をよく読み、よく考え、事実を見る目は確かな人」と言う。
しかし、その審理を尽くしたはずの「山本判決」は、二審に相当する抗告審で、あっさり破棄された。
この決定を下したのは、大阪高裁の山下郁夫裁判長(62歳)だ。この人もまた、「局付」経験者で、最高裁調査官を務めたトップエリートである。
このように、原発を止めた裁判官は、地道に裁判部門一筋に歩んできた人で占められている。一方、原発を動かした裁判官は、一様に最高裁事務総局での勤務経験があるエリートがほとんどだ。
この両者の違いは、日本の裁判所の二面性を図らずも映し出しているといえよう。
「憲法と法律にのみ拘束」されるはずの裁判所が、実は、政治的配慮を怠らないところだからだ。
また、そういう行動原理にあるからこそ、最高裁は、原発訴訟で裁判官に忖度してもらいたいメッセージを発信するのだろう。
最高裁は、2013年2月12日、司法研修所で「特別研究会(複雑困難訴訟)の共同研究」を行った。福島原発の事故を受け、今後、頻発するであろう原発訴訟に対し、何らかの手を打たなければならなかったからだ。
この日の議論は、2013年5月付の小冊子としてまとめられているが、そこには直接、指示めいた記述はない。ただ、最高裁が望んでいるであろう訴訟方針をふたりの裁判官が、意見として述べている発言が挿入されていた。

「官僚」裁判官

実際、この小冊子を手にした裁判官は、ふたりの裁判官の意見は、最高裁の訴訟方針を代弁したもの、と受け取った。
匿名処理されたひとりの裁判官が、「基本的には伊方原発最判(註・最高裁判例)の判断枠組みに従って今後も判断していくことになると思う」と言うと、もうひとりが、「伊方原発最判の枠組みで判断することに賛成である」と、その必要性を強調している。
1992年に出された伊方原発(愛媛県)の最高裁判例は、福島原発の事故以前に提訴された原発訴訟において、多用されてきた判断枠組みである。
冒頭の井戸が、この枠組みを使わずに志賀原発の運転差し止めを命じるまで、原発訴訟を全敗させる効力があった。
その最高裁判例には、「(原発の安全審査は)高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」と書かれている。
つまり、高度な専門性が求められる原発の安全性を、技術者でない裁判官が判断するのは難しい。したがって、専門家や行政側の意向を尊重し、裁判官は自制的であるべきと示唆する内容だ。
そして、この「共同研究」で打ち出された判断枠組みを早速、踏襲したのが、鹿児島地裁の前田郁勝裁判長(59歳)と、福岡高裁宮崎支部の西川知一郎裁判長(57歳)だ。
前田裁判長は、九州電力の川内原発(鹿児島県)の再稼働を認め、西川裁判長は、その決定を高裁で維持した。この西川裁判長もまた、最高裁事務総局で「局付」を経験したのち、最高裁調査官を務めたエリートである。
最高裁事務総局で勤務経験のある裁判官が、政府にとって好都合な結果を生み出し続けていることの因果関係について、前出の矢口洪一は、こう断言している。
「三権分立は、立法・司法・行政ではなくて、立法・裁判・行政なんです。司法は行政の一部ということです」
要するに、裁判部門は独立していても、裁判所を運営する司法行政部門は、「行政の一部」として、政府と一体であらねばならないと言っているのだ。
原発を稼働させてきた裁判官たちは、まさに、この矢口の言葉を体現するかのように、公僕として国策を遂行する「官僚」の務めを果たしていたといえよう。
(文中敬称略・以下次号)
岩瀬達哉(いわせ・たつや) 
55年、和歌山県生まれ。'04年『年金大崩壊』『年金の悲劇』で講談社ノンフィクション賞を受賞。その他著書多数
「週刊現代」2017年5月20日号より

0 コメント:

コメントを投稿