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BizHint 編集部 2019年10月15日(火)掲載
純米大吟醸の日本酒で美味しい銘柄と言えば真っ先に名前が挙がる「獺祭」。日本酒離れが進むとも揶揄される厳しい業界状況のなかで、現在では年間138億円を売り上げる一大ブランドに成長しています。「獺祭」を一代で立ち上げたのが旭酒造株式会社の三代目の桜井博志会長。旭酒造の事業承継と「獺祭」が生まれるまでの物語を聞きました。
「父のやり方ではダメになる」と進言したらクビ
河合聡一郎さん(以下、河合): 旭酒造さまの創業は江戸時代からと伺っております。そんななかで、桜井さんは3代目。この点についてお伺いしてもよろしいですか?
桜井博志さん(以下、桜井): 創業は江戸時代なんですが、所有権が変わっていったんです。明治時代に私の祖父が買い取って桜井酒場という酒蔵になりました。しかし、第二次世界大戦中に酒米も統制品になり、一度は廃業。戦後になってから復活したのですが桜井酒場だけでは力がなかったので、私の母の家の樫部酒場、磯田、高村、藤本の各酒蔵5社が合体して旭酒造という会社になり、私がその三代目です。
当時は旭富士という銘柄を造り、山口県東部の酒屋に卸す形で経営を成り立たせていました。人口規模は50~60万人という小さな商圏です。 この辺りの酒蔵はみな、仲卸を通さずに直接酒屋に直販していました。
河合: そんな背景があったんですね! 桜井さんは幼少期から継ぐことは意識していたのでしょうか?
桜井: 昔は長子相続が当たり前だったので継ぐ意識はありました。しかし、周りからは「頼りない」という批判もされていましたね。父も悩んでいたと思います。私も「野球選手」や「宇宙飛行士」といった男の子の月並みな夢を抱いていましたが、高校生になれば現実も見えてきます。大学卒業後、西宮酒造(現日本盛株式会社)で3年勤めて旭酒造に入りました。
当時、戦後の高度経済成長と共に旭酒造は、伸びてはきましたがオイルショックが終わり、1970年代以降の経済は難しい局面に入ってきました。 私は酒蔵がこのまま伸びるとは思えなかった。でも、父は「真面目に頑張る」ことに固執していたように思います。 とにかく父のやり方ではうまく行かないのは分かっていた。進言もしましたが、口論になってしまい打開策は見つかりませんでした。
父からしたら「若造が意見を言っている」くらいにしか思っていなかったのでしょう。その後、売上がジリ貧になってきて口論も絶えなくなり、ある日父から「明日から会社に来なくていい」と言われ退職をしました。そして、自分で石材卸の桜井商事を立ち上げたのです。石材卸は父が亡くなって、もう一度私が旭酒造の社長として戻ってきてからも続けました。
売上前年比85%が続くなか、売れるために思いついたことはなんでもやった
河合: 一度はお父様からリストラをされて、ご自身で石材の事業を始めて……。先代が亡くなられてから旭酒造に戻って、その時の気持ちはどうだったのでしょうか? 日本酒をもっと広めたいとか? 会社を大きくしたいとか?
桜井: そんな大げさなことはありません。 一度、クビになっているのですから、父への反発心の方が大きかった。 「俺にだって日本酒は造れるんだ。やって見せてやろう」という思いでした。社長に就任した1984年は売上前年対比85%が続いていた状態です。この状態が10年も続けば売上は3分の1になってしまいます。 とにかく、売れるために思いつくことはなんでもやりました。
社員たちに「うちの酒はなんで売れないと思う?」と聞いたら、「テレビCMをやってない」とか「値引きがないから安くない」「買ったときのおまけがない」などさまざまな意見が出てきました。流石にCMはお金がないとできませんが、その中からできる限りのことをやってみました。値引きをしたり、お皿をつけたり、酒屋に丁寧に挨拶回りしたり……。 売上は前年対比100%までは戻せるのですが、それ以上はいかない。長期的には無駄だった と分かりました。
河合: そんな厳しい状況のなかでどのようにして会社経営を存続できたのでしょうか?
桜井: 旭酒造を継いで最初の10年間を持ちこたえられたのは石材卸を続けていたおかげです。酒蔵の経営者としては失格だったと思います。
さまざまな施策をやってみて お客様の声を聞いていったら、どうやら「純米大吟醸」の反応がいい ということが分かりました。そして、純米大吟醸の路線に徐々にシフトしていったのです。
シンプルだけれど美味しい商品、それが「獺祭」
社屋の7~9階には醸造タンク300本が並ぶ。年間500万本(1.8リットル瓶換算)を生産している
桜井: でも、はじめから売れたわけではありません。派手なラベルにしてギフトとして売ったり、日本の四季をあしらったオシャレなボトルにしてみたり。しかし、 見た目重視や企画重視の商品は、それなりには売れますが……。他社に真似されたり、陳腐化して長続きしません。
そこで考えたのは無印良品のような「パッケージや中身はシンプルだけれど品質の良い商品」です。それが「獺祭」です。
河合: そのような発想から生まれたのですね! 当時は社員の方々と一緒になって相談をしながら、商品自体を造り込んでいかれたのでしょうか?
桜井: それはもう私が勝手にやりました(笑)。社員数は3~4人しか居ませんでしたから、相談して納得させるよりも私がやった方が早い。当時の獺祭は旭富士などに次ぐ第三のブランドなので、周りも「社長がそこまで言うんだったら、一度やらせてみたらいいんじゃないか」となっていました。
河合: いい意味で変革はトップダウンだったのですね。事業承継を伴う変革の場合は、センスメイキングと呼ばれる「組織の納得感をどう醸成するか」がカギとも言われます。小さな組織だったのでご自身で一気にスピード感を持って進められたのですね。
桜井: 獺祭が売上100億円規模になってきた今でこそ「納得を得るプロセス」は大事だと思います。ですが、少なくとも当時は やってみて、失敗したら修正しての繰り返しです。杜氏の経験と勘と言われていた仕事を分割して、米洗中の米や麹の水分含有量、もろみの日本酒度やアルコール度数など、すべて測って分析し管理して造るようにしていきました。
温度や日本酒度など一つ一つのタンクの数字を測り、品質を高める
新しい市場に踏み込んだ商品を造っていると企画の外れる商品も出てきます。売上1億円程度の規模の会社で数十万円の資材ロスは大きいもの。でも、もう父もいませんでしたし批判する人がいなかったからできたことですね。
河合: そこから獺祭が売れて、会社が伸びていくフェーズになっていかれるかと思います。そんななかで「このブランドは行けるぞ!」と思ったきっかけはございますか?
桜井: 実はあまりないんです。まず、市場が動き始めていきます。飲食店で評判になり、徐々に獺祭を美味しいと言ってくださる方が増えて、注文が増えて行きました。その流れに合わせていったのです。
派手な広告宣伝も行っていません。広告代理店が入っていたら長続きしなかったと思っています。 なかには獺祭が杜氏を置かずに大量生産しているという報道を見て「日本酒は小規模に真面目に造るもの。獺祭が売れていること自体がおかしい」と言われることもありました。でも、長期的に見たら市場が正しい。お客様に選ばれて売れるものが残っていくと思います。
お客様の本質的な幸せを考えて造ることが大事だと思います。飲んで幸せを感じてもらえる酒を造りたい。 酒蔵の社長が「自分は美味しいと思わないけど」「売れそうだから」と思って造ったお酒を飲まされるようでは、お客様が可哀想ですよ。 自分が美味しいと思える酒造りをしなければと思っています。
(文:星久美子 撮影:草刈健 編集:上野智)
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