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やっとこちらに回答できる日が来ました。
できます!
と大手を振って言える日が。
私がPythonを学習し始めたのは2018年の1月でした。当時40歳です。当時の私は農業の経営者ながら、頚椎(首)のヘルニアで重いものが持てなくなり農作業ができない中どうやって生きていくのかを考えていた時期です。
私にあったのはネギなどの栽培技術と15haの借地の農地、コンバイン1台、トラクター2台、田植え機1台と、二人の従業員、あとは2500万円の借金でした。
はじめはネギの栽培を自動化してその技術を大手の会社に売ろうと思ったのですね。そのためにRaspberry Piを買ったのがプログラムのきっかけです。
その前の2年間は本当に寝たきりのような状態で、常にひどい頭痛の中、気がついたら2年たっていた、という感じでした。その二年間の間に嫁さんはいなくなってましたし、親父は死んでいました。今となってはすべてが夢の中の出来事だったのではないかと思うくらいです。
やっと体が動くようになってRaspberry Pi・プログラムを学び始めて、すぐにこれを実用化させるのは難しいというのがわかりました。ホコリ・水・化学物質・生物汚染などが当たり前の農業環境に放り出すにはあまりに脆弱すぎるわけですね。
ですので、やるとしたら植物工場のような隔離環境を作って環境要因のすべてをコントロール下に置かないと不可能だと思いました。ただ、農業者の視点から見てそんな大規模な植物工場がビジネスとして成り立つとも全く思えなかった。ですので、その野望はひとまずおいていてプログラムの中で飯の種になりそうなものを探し回っていたところ、AIブームが来ました。Pythonで何やらできるそうだと。
同じ頃、近く(と言っても電車で1時間ほど)のところにAIのデータ制作をする会社ができるということを聞いてそこに飛び込みました。最初の一年くらいは農業法人の清算事務をしながらデータ制作のアルバイトをやる、というような生活をしながら、プログラムの勉強をしてきました。Paizaというエンジニアの就職サイトのプログラムテストでクラスBくらいになった頃から再度就職活動を初めて、何社か受けてみましたが、年齢を聞いた瞬間に門前払い、ということも何度もありましたね。コードを見てもくれないわけですよ。
他にもLinkedInにも登録して外資系の農業研究所からのオファーなどもあったのですが、英語力の問題でも採用ならず、ということもありました。でも勉強にはなりましたね。
そのころになるとプログラムの学習も順調になってきて、AIの勉強会に出たり、G検定取ったり、Couseraで機械学習の講習を受けたり、自分でお米の判別AIを作ったりもするようになって、自信もついてきたのですが、限界も見えてきました。AI技術ってそれだけだとなんのサービスにもならないのですよね。つまりお金が稼げない。AIの技術を取り入れたUI付きのアプリを作るとかWEBサービスを立ち上げるとかしないとAIを生かしようがない、と。
年齢だけで門前払いされて、全くプログラムの実力などを見てもらえる機会をいただけなかったこと反省もあって、方向性を少し変えて、UIとかWEB系の技術を探して勉強しました。PyQtとかtkInterとかDjangoとかのPythonのライブラリも一通りやりましたし、WEB系の取っ掛かりとしてはJavaScript(というかGAS)を使ったLINE BOT作ったりとか。要するに小銭を稼ぐようなサービスを作りつつ、それをポートフォリオとしてどこかに潜り込めないかなと画策してみたわけです。
ただ、そうこうするうちに首の調子がまた悪化して、入院とあいなりました。それが今年2020年の1月です。10日の入院の予定が傷口からバイキンが入ってしまい40日間の入院に伸びてしまいました。
それを幸いとしてCouseraという学習サービスサイトでGoogleのクラウド技術のコースを取りまくってGCPの技術と4つの修了証をもって退院します。その修了証を持ってバイト先のコーディング試験を受けるつもりだったのですが、退院したらコロナの影響で出社制限。目論見は大きく外れてしまい、シフト・収入も減ってしまいます。しばらくは入院で得た保険金があるのでそれで食いつなぐにしても、いつか限界がくるので、バイトを増やそうということで入ったところが子ども向けのロボットプログラミング教室でした。私が教育学部出身で、教育業界の経験もあり、Pythonを使ったコースもあるということでの採用でした。
一息つけるかと思った3月末頃、その教室を運営していた会社がコロナの影響もあって潰れてしまいます。アチャーと思って次を探そう思ったのですが、一週間くらいして「教室の責任者をやってくれないか。やってくれるというのであれば引き取ってくれる会社がある」とのことで、そこの正社員の席が転がり込んできました。
その引き取ってくれた会社はどちらかというとガテン系の会社でしたが、チャレンジングな社長のもとでいろいろな事業展開をしていた会社で、その社長に拾ってもらったという形ですね。
まずはその教室の立て直しをやっていくことになるのですが、趣味でも続けていたプログラムでベトナム語を翻訳するLINE BOTを社長に作ってみせたことがあります。これは日本語を入れるとベトナム語にして返ってくる、ベトナム語を入れると日本語が返ってくる、写真を取ればOCRも勝手にかけて翻訳してくれる、といったものです。ベトナム人の研修生さんがいると聞いて作ってみたものだったのですね。
まぁ、半分遊びのようなものだったのですが、それがきっかけで社長が「こういうことはできないか、ああいうことはできないか」と持ちかけてくるようになります。その中で、あるプロジェクトが実際に立ち上がったのが7月で、そこのプロジェクトマネージャーになりました。チームの編成からやらせてもらっています。
開発規模は小さいものですが、ユーザー数は数千人規模のプロジェクトです。進行中のものなので詳細を語れないのですが、Python、クラウド技術などを活かせてますし、開発をしているという意味でもエンジニアしている、と言ってもいいと自分では思っています。
PMとしてやって年齢や経験が生きているなぁと思うのは、他業種とはいえ、経営者をやってきたという経験はプロジェクトの各ステークホルダーとの折衝でかなりプラスに働いています。
技術者として経験が薄いので未熟さは否めませんが、クラウド、Pythonといった個別の技術なら戦えていますし、ビジネスサイドの経験はPMをやる上で自分の中では不可欠な要素となっています。技術の未熟さは自分の学習意欲と仲間の手助けで補えばいいので、致命的なものとは思っていません。チームとしてプロジェクトを完遂さえすればいいのですから。
さて、この質問の答えとして、私個人の経験を書きました。ここに回答するために長い道のりを歩んできた気がします。
40台になってからの転職活動は一筋縄では行かないことは私自身、身を持って体験しました。大事なのはどこかの会社に養ってもらおうなどとは考えずに、その技術で一本立ちすることも視野に入れつつ技術を磨き、チャンスがあったら貪欲に食らいつく、という姿勢だと思います。
人生経験は必ずプログラムのような分野でもいかせます。同じような境遇の誰かに勇気を与えられたら、嬉しいです。
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