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経営安定化のために新事業を立ち上げようとすると、「本当にやる必要があるのか」「うまくいくわけがない」と社員から批判され、組織理解を得られないことに悩む経営者は多いのではないでしょうか。埼玉県狭山市に本社を構える株式会社シンワは、金属切削加工を本業とする小さな工場です。その2代目、村上社長は1974年から続くメイン事業とは別に、新事業として総合アウトドアブランド「muraco」の立ち上げに尽力しました。社内の反発は予想以上だったようで、「新事業が軌道に乗ると社内は荒れ、誰も口を聞いてくれなかった」と言います。村上社長が新事業への組織理解を得るために取り組んだこととは。お話を伺います。
株式会社シンワ
代表取締役社長 村上 卓也さん
1982年、埼玉県狭山市生まれ。大学卒業後、インテリア業界のアクタスに入社。その後、米国留学を経て帰国後に大手総合アウトソーシング企業トランス・コスモスに転職 。社外で経験を積んだのち、家業に戻ることを決意して2007年シンワに入社。専務を経て2015年から代表取締役社長を務めている。 社長就任翌年にアウトドアブランド「muraco」を立ち上げた。
小さな金属加工工場がアウトドアブランドを立ち上げ
――新規事業を立ち上げることになった経緯を教えてください。
村上卓也さん(以下、村上): 前職を辞めて家業に戻ってきた時、会社としてのルールみたいなものがまったくなくて驚いたことが最初のきっかけでした。いざ入社してみると、みんな好き勝手に働いている感じで。残業申請や経費申請などもない状況でした。
私が入社した当時、社員は父、母、姉、それと従業員が2人。合わせて5人だけでした。典型的な家族経営の町工場です。父は技術者として独立して以来、現場人として最前線で働いていたので、就業規則やルールなどを作ることはなく、黙々と仕事に向き合っていました。
私自身、家業に戻る前までそれなりに大きな組織で働いた経験があったので、会社としての体制が整っていない現状を目の当たりにし、この環境で残りの社会人人生を過ごすことに違和感を感じていました。
それでも仕事はそれなりに忙しく、社員も徐々に増えていましたし、手狭になっていたということもあり、現在の狭山市に本社工場を移転しました。
そして工場移転のタイミングで2代目社長に就任し、 会社を背負っていく覚悟のような気持ちも芽生えていたと思います。 事業所移転は当時の年商と比較しても大きな投資でしたので、 「絶対に会社を潰すわけにはいかない」 という危機感もありました。それで既存事業の拡大施策だけでなく、将来のさらなる経営安定化を図るために新規事業の可能性を検討し始めました。
当時、プライベートでたまたまキャンプ用の折りたたみ椅子を購入したのですが、そのパーツの一部が切削加工で作られていることに気づきました。
おそらくその椅子を構成するパーツの中で最もコストがかかっているのではと思い、ここを自社で加工できれば他社に比べて競争力が出るのではないかと思いましたし、 アウトドア用品には比較的金属が使われている比率が多いので、アウトドア業界であれば自社のリソースで勝負できると考えました。
――なぜ総合アウトドアブランドの立ち上げにこだわったのでしょう?
村上: muracoは、あくまでも事業として取り組みたいと思っていたからです。 きっかけは趣味の延長だとしても、自社でできる範囲のことだけやって売上の足しにしようという考えでは、会社を支える規模にはならないと考え 、スノーピークさんやコールマンさんと戦えるような事業にしたいと考えていましたので、 総合ブランドを目指す という部分にはこだわりを持っていました。
社内の反発に直面。「作業着を脱いだ」社長に批判も
――新事業立ち上げ当初の社内の反応はいかがでしたか。
村上: 立ち上げ当初は、新事業に興味を持ってくれる雰囲気でした。「うちの会社、何か変わりそう」という期待感が少なからずあったように思います。
しかし、いざ事業が動き出すと、 現場からの反発が一気に大きくなりました。
――どんなことが起きたのでしょうか。
村上: 例えば、新商品の試作品を作るために私が図面を描いて現場に回しても、納期を後回しにされたり、完成しても報告をしてくれなかったり、なかなか作業が進まない状況でした。
完成品を隠されたりと、 あからさまな嫌がらせのようなこともありました。時には取引先の工具屋さんから、「社長、新規事業どうですか?色々大変ですよね。現場のみなさんも結構悩んでいるみたいですよ」なんて言われたりもしました。当時の製造現場の従業員とは日々揉めていた記憶が多いです。
そんな状況でしたので、当時は毎朝会社に出社するのが苦痛でした。かといって家族や親に心配をかけるわけにもいかない。当時の自分を振り返ると、本当に余裕がなかったです。相談する相手も少なく孤独を感じていました。
新規事業は立ち上げたばかりで、売上も少なく早く結果を出さなければという焦りもあるし、かといって現場の反発は収まらない。どうしたらいいのかわからなくて、重苦しい日々が続きました。
それでも父が試作部品を作ってくれたり、自社でもできる物を同業の取引先に直接頼んで生産してもらったりしていました。
――随分と大変な状況だったんですね。
村上: 今思えば、それらの原因としては、 本格的に新規事業立上げ期に突入し、社員が作った利益を、パソコンの前に座って仕事をするようになった社長が“道楽”のために使っているように映っていたのかもしれません。
アウトドア業界の人と関わり始めてから、作業着ではなくカジュアルな服装にもなっていましたし、黙々と作業してくれている現場のメンバーには違和感だったかもしれません。
――どうやって乗り越えたのでしょうか。
村上: 早く成果を出すしかないと思いました。幸いなことに、当時、本業である金属加工の仕事は比較的安定していて、新事業に投資する余力はあったので、製品開発、設備投資、イベント出展などPRを積極的に行なっていきました。
製品開発は、焚き火台やペグハンマーなど、自社設備を生かせる商品の開発に注力しました。ブランド立ち上げ当初に発売した「黒いテント」は、 「アウトドアっぽくない」と言った理由で賛否両論はありましたが、逆にそれが話題となり、用意していた300張りのうち、100張りが初日で売れました。
徐々に「muraco」ブランドの図面が製造現場に頻繁に回るようになると、少しずつ社内の空気が変わってきたように感じます。
「なんだか売れているみたいだな」という声が聞こえるようになりました。
売上も徐々に増え、大量の受注で 現場がフル稼働することもありました。忙しいながらも、社員たちの表情に充実感が滲み始めた頃だと思います。 売上という目に見える成果が、社内の意識を変えるきっかけになったのかもしれません。
またコロナ禍では製造事業部は稼働を止めるほどの売上の落ち込みもありましたが、muracoが好調だったため、給与を払い続けることができました。従業員がmuracoの本格的な事業化を感じたシーンだと思います。
その後少しずつ軌道に乗り、本社を増床して小さな直営店をオープンしました。2022年には立川に都内に初となる大型旗艦店「muraco TACHIKAWA」を出店することができ、今では卸売の取り扱い店舗さまも国内外に130店舗以上にまで増えました。
未経験者にこだわった新事業部の人材採用
――新規事業部の立ち上げと並行して、組織改革も進めたそうですね。
村上: 組織改革というほどではありませんが、muracoにまつわる仕事が、一人でできる範囲の業務を超えてきている状況だったので、細かい業務の精度が落ちていることを実感し、muraco事業部としての採用活動を行ないました。
muracoは金属加工工場が母体のブランドであること、モノトーンのブランドカラーを持っていることなど、既存のアウトドアブランドとは違う特徴的な背景があります。
アウトドア業界の常識を知っている人間ではなく、muracoの方向性に共感してくれて、アウトドア業界にはない発想を持った人材と一緒に新しいアウトドアブランドを作っていきたい と考えていました。
実際、設計室にはインテリア業界や工業製品のデザイナーを採用し、バックオフィス系業務には旅行代理店出身者を採用しました。その他 現在でもアウトドア業界出身者は一人もいません。 一方、製造事業部にもmuracoのモノづくりに携わりたいと入社したオペレーターもいます。
私も含めアウトドア業界内部に関する知識はゼロですが、アウトドアが好きな人材が集まりました。 アウトドア業界だからこうあるべきだという先入観がないので、今までにないようなアウトドアブランドの雰囲気を出せていると感じます。
そして、彼らのmuracoの事業にかける熱量が社内に新しい風を吹き込んでくれました。
――どのように変わったのでしょうか?
村上: 私だけがmuracoの業務を行なっていた頃は、 社長が好き勝手に何かやってると感じている製造現場の人間が多かったと思います。
ですが次第に、muraco事業部の従業員が増え、 上下関係ではなく同じレイヤーの新しい従業員が、現場の反発とは関係なく会社に可能性を感じで集まってくれた。そういう彼らのコミュニケーションの総量が増え、組織を変える原動力になったのではないでしょうか。
また、若い社員が多いことで、これまで重苦しかった現場の雰囲気も少なからず軽やかになっていきましたね。
組織としては既存の金属加工事業を「製造事業部」、muracoにまつわる仕事を「muraco事業部」と分け、会社を2事業部制にしました。
イベントを通じてエンドユーザーと従業員、さらに従業員同士の“つながり”を育む
――コミュニケーションで工夫した点はありますか?
村上: 意識して取り組んだのは、イベントを通じてエンドユーザーと従業員、そして従業員同士の交流を図ることです。実際にエンドユーザーを工場に招いて、muraco商品の製造工程を見学してもらうイベントなどを開催しました。
準備はmuraco事業部の従業員が中心になって進めましたが、案内役は製造事業部の従業員に担ってもらいました。日々機械に向き合っているメンバーも、いざエンドユーザーと接してみると、だんだん楽しそうな表情を見せてくれました。
「いつも愛用しています」「こんな風に使っています」「muracoの商品が大好きなんです」といったお客さまの声を直接聞く機会は、製造事業部の従業員にとっても新鮮だったようです。 自分たちの作った商品が、ユーザーのキャンプの楽しみを広げているという実感が持てた瞬間だったんじゃないでしょうか。
そんなmuracoを愛するファンの生の声が、本当の意味で両事業部の意識を変えていったのかもしれません。
――最後に、今後の展望をお聞かせください。
村上:おかげさまでmuraco事業部は売上の6割以上を占めるまでに成長しました。事業規模の拡大に伴い、muraco事業部の従業員数は14人に増え、総従業員数は24人になりました。
「社内に生産能力がある」ということは我々の最も重要で大きな強みです。この強みを生かし、かつスピード感を持って時代の変化に合わせて進化を続けていく。それがシンワの目指す姿です。muraco事業部を通じで得た経験を組織文化として定着させていきたいです。
そして、ここでお話ししたことが、どこかの「モノづくり」企業の励みになれば嬉しいです。
(取材・文:高林千尋 撮影:岡戸雅樹)
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