勉強の為に転載しました。
https://www.google.co.jp/amp/news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/14877436/
黒川清氏(左)と、田中俊一氏(右)のふたりは、原子力をめぐる議論の現状を、どうみているのだろうか(筆者撮影)
福島の原発事故後に設置された、原子力規制委員会の初代委員長を務めた、田中俊一氏(73)はいま、福島県飯舘村で暮らし、アドバイザーとして村を支援している。
原発事故の検証を担った国会事故調の委員長を務めた黒川清氏(81)は、衆議院に設置された原子力問題調査特別委員会のアドバイザリーボードのトップとして、国会がどのように原子力行政を監視しているか、見続けている。
原発事故から7年以上が過ぎ、アドバイザリーボードを含め、再発防止を目指すさまざまな取り組みには、注目が集まりにくい。しかし、立ち位置こそ違っても、2人の学者の取り組みは、いまも静かに続いている。
福島の事故で、全住民が避難を強いられていた飯舘村で暮らす田中氏は、原子力をめぐる議論の現状を、どうみているのだろうか。4月27日、黒川氏とともに、飯舘村を訪ねた。
――黒川先生は医学、田中先生は工学と分野が違います。おふたりのお付き合いはいつごろから?
田中:黒川先生は、国会事故調(東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)が終わって、わたしが委員長になった後、委員長室に2、3度おいでになりましたね。
黒川:先生はすごく頑張っていたから、応援団として伺ったんです。わたしのところに来る海外の見解などもお伝えしたくて。5年間、本当にご苦労さまでした。大変でしたね。
田中:いろんな方にサポートしてもらったから、なんとか5年務まったんです。
元の職場には戻らないという覚悟を持って来ていた
黒川:委員会は、下の組織が難しかったでしょうね。
田中:役所はいつも審議会を横のほうに置きますが、規制委員会は、三条委員会(注:国家行政組織法第3条に基づく委員会で、独立して意思決定をする権限がある。原子力規制委員会や公正取引委員会がある)で、5人の委員が上に立っているというのは、とってもよかったんです。(原子力)規制庁の初代長官も池田克彦さんで、第88代の警視総監をされた方でしたから、非常に重みがありました。
ほかの省庁から来ていた幹部も、元の職場には戻らないという覚悟を持って来ていました。原発事故についての重い反省もあり、それがよかったんではないかなと思っています。若い方も、いったん元の職場に戻っても、規制庁がいいと言って戻ってくる人もずいぶんいます。意外と、中では自由にものが言えますから。
黒川:それは、スタッフの人たちにとっても元気の出る話だね。
田中:議論をフルにオープンでやったというのが、いちばんの力になったと思っています。そういう文化になれば、日本の役所もよくなると思います。メディアを含めて、いろんな聴衆が見ているから、自分の発言に責任が出てきます。規制をする立場というのは、非常に強い権力を持っています。それだけ責任があるのだから、やたらと権力を振り回してはいけません。
フルオープンの議論はいずれ力になると語る、田中俊一氏(筆者撮影)
内部では、職員にもっと勉強しておけとか、ずいぶん厳しく注文をつけたこともあります。単なる雑談ではなくて判断をするために、規制庁の職員もみんなの前で発言をしなければなりません。そういう中で鍛えられていくんです。
発言する場と、責任ある発言をする環境さえつくれば、自然に組織はいきいきと動き始めます。いまの政治も、フルオープンでやったら、もっと建設的な議論ができるようになるのではないかと思います。
黒川:隠したって、いずれはバレるからね。オープンにしていれば、どうってことないんですよ。公文書は、もともと国民のためのもので、オープンな性格のものですし、後世に国家を検証し、学ぶことができるようにする、国家の歴史そのものです。メモがないとか言っているほうがおかしい。いまは隠すような時代じゃない。政治家も官僚も思考の枠組みが貧しすぎるし、浅い。基本的には知られて困る話なんてないはずです。いまの時代は、公開しながら、みんなに問いかけることがすごく大事です。
田中:原子力技術の軍事転用を防止するためや、テロ対策など、オープンにできない情報はあります。規制庁の担当のセクションには、われわれだって自由には出入りできませんでした。
政治的な介入などを防ぐのは、メディアや世論であるし、議論をオープンにしていると、理不尽な力が入り込むことが非常に難しくなる。そういう意味では、フルオープンでやることの力を、規制庁の職員も含め、みんなが体験的に学びました。
わたし自身もこんなにすごいものだとは思わなかったけれども、強力ですよ。世の中、みんなが見ているところでは、良識がきちっと働きます。そういうふうに日本がなっていくといいなと思っています。
規制委員会では根回しはしない
――省庁の審議会を見ていると、外部の委員には事前に入念な根回しがあって、会議が開かれる前に方向性は決まっているという印象も受けます。
黒川:審議会は一応シナリオがあって、一応は、みんなに意見を言わせるけど、方向性と違う主張を曲げない人がいれば、その人は、しだいに委員として呼ばれなくなります。単なる役所のアリバイづくりの面もある。最近、認知症の件でイギリス政府の委員を務めましたが、政策を作り上げていくプロセスがまったく違いますね。
田中:事前に勉強してもらうことはあるけれど、規制委員会では根回しはしません。時には専門家の意見を必要とする場合はありますし、さまざまな意見を参考にはしますが、基本的には決めるのは自分たち委員会というスタンスでした。日本では今までになかったことだと思います。
原子力規制委員長は、政府や国会の思惑で自由に代えることはできません。国会には5年間で、各種の委員会に200回以上出ましたが、国会議員も「独立した規制委員会が決めたことを尊重しよう」ということで押し通していただけました。
黒川:三条委員会を作っても、トップに気構えがないとうまくいかないね。委員長が決心をして、決めたことを曲げない。いちばんいい例が、公正取引委員会で、委員長だった竹島一彦さん(注:大蔵省〔当時〕、国税庁長官、内閣官房副長官補などを経て、2002年7月~2012年9月、公正取引委員会の委員長を務めた)はよかった。
どんどん下を引っ張って、ガンガン仕事をやらせようとした。トップの覚悟と責任感がどこを向いているか、自分の仕事は国民から託されたんだという意識が大事です。いつも資源エネルギー庁のほうを向いているような人だと、判断がそっちのほうになびいてしまう。
田中:できない理由を言っていても意味がないんです。大事なのは、どうやってやるかです。科学的に、中立的に、透明な議論を徹底していれば、結局、最後にはそれがパワーになります。事故が起きた後の日本の原子力の生きざまとして、おそらく、それしか生きる道がなかった面もあると思います。
黒川:そういうふうにやっていれば、自然に応援団が出てくるね。
田中:困った国会議員もいますが、しかるべき人は、きちんと見ていてくれて、「田中さん、いまのままでいいよ」と言ってくれる議員もたくさんいました。わたしの国会答弁では、規制庁の職員が答弁書の準備をしてくれたのですが、原則として、ほとんどファクト(事実)以外は使いませんでした。数字やファクトは、忘れるし、間違えることもありますから。相手が何を知りたいのかを聞いたうえで答弁をしないと、相手だって納得してくれませんし、実のある議論にならないと考えていました。
黒川:国会は、委員会も含めて一字一句、全部議事録が残るところが、いいところだね。ほかの記録についてはよくわかりませんが。
飯舘村を歩いてみて感じたこと
――黒川先生は飯舘村を歩いてみて、どうお感じになりましたか。
黒川:川俣町の山木屋地区(注:放射線量が他の地域よりも高く、住民に避難指示が出ていたが、2017年3月31日に指示が解除された。飯舘村に隣接している。2018年4月6日付の福島民報電子版によれば、4月に開校した山木屋地区の小中一貫校には、小学生5人、中学生10人が通学しているという)にある学校を見ましたが、大きな新しい校舎ができていました。
役所としては、帰ってくる人がいるだろうと、ちゃんと幼稚園、小学校、中学校と予算をつけて学校を用意したのでしょう。でも、戻ってくる子どもたちの数が限られているのに、あんなに大きな施設が必要なのでしょうか。まずは小規模の施設にして、必要に応じて拡張できるようにすればいいのに、と思います。
飯舘村には放射線量が高く、現在も立ち入りができない地区がある(筆者撮影)
黒川:でも実際には、大きな学校を造って、予算を全部使ってしまうわけです。いままでのように、予算があったらそれを使わないといけないという発想のようですが、自分たちの頭で柔軟に考えてはどうですか。国費の無駄遣いはあちこちいくらでもある。
福島のどの自治体にも共通の課題
田中:山木屋の学校も飯舘の学校も、これから維持するのが大変です。山木屋の小学校は、低学年の子どもがいないそうで、これから、子どもたちが増える見通しが立てにくい。高齢者と子どもたちの問題は、非常に深刻です。福島のどの自治体にも共通の課題です。
飯舘村には特別養護老人ホームがあります。入所を希望するお年寄りは多いのですが、介護をする人が足りません。全国的にも足りない状況で、飯舘に来て働いてくれる人がなかなか確保できません。大学と組んで、学生を確保できないかなどと相談をしています。介護の実務をしながら、飯舘のよさを知ってもらい、気に入ったら実際に移住してもらうというような仕組みが必要です。
黒川:メディアは繰り返し、こういう問題を取り上げてほしい。国会事故調でもメディアのだらしなさを繰り返し指摘しました。省庁と自治体できちんと話をして、こういうニーズにどういう対応ができるか、どうやって最適化するか、方法を考えては。
田中:わたしも、飯舘村のような田舎の山の中で育ちました。子どもたちに生きる力や知恵を身に付けてほしいと考えています。数学や物理ができる人はたくさんいます。それだけではなくて、飯舘のような難しい問題のある地域であればこそ、たくましい人間に育って、生き抜ける知恵と力を持った子どもを育てたいというのが願いです。そのため、5月22日には、早野龍五先生(東大名誉教授)を招いて、天体の特別授業を行ってもらいました。こうした取り組みも始めています。
黒川:教科書を読んで、偏差値の高い大学に入るのがゴールだと思っている人が多いかもしれませんが、それだけではダメなんです。たとえば、医者は、いくら本を読んでも、実際に患者さんを診なければ、疑問が出てこない。医師の仕事は、まずは謎解きです。患者さんを診てから、教科書を読むと、必ず身に付きます。知りたい理由があるからです。知識だけで勝負できるのは、クイズ番組だけ。なぜ、なぜ、と問いかけることが重要です。
田中:こういう田舎にいるからこそ、人生を生き抜く力を養いたい。歴史を見たって、一生、なにも起きない時代なんてないんです。「飯舘なんかにいて大丈夫か」とか、「放射能で汚れているから来るな」とか言われることもあるようです。そういうことに対して、「なにを言ってるんだ」って、きちんと自分の力で説明できる子どもを育てたい。子どもたちも、いろんな人生を送ると思いますが、どんな人生を送っていても最後は生き抜く力、知恵が大事ですよね。
――田中先生はなぜ、飯舘村とかかわり続けているのですか。
田中:原子力委員会の委員の任期が終わって1年ちょっとで事故が起きて、当時は、なにもしていなかったんです。放射能の状況をみて、除染をしないといけないと思い、最初に行ったのは、飯舘村の長泥地区なんです。そのときに、一個人として除染をやろうとすると、必ず国からクレームがつくだろうと思って、それに対抗するにはどうしたらいいのかなと考えて、メディアの人たちに「今度、試験的な放射能除染をやるので興味があったらおいでください」と声をかけました。
大勢のメディア関係者が来て、報道されました。その後の除染のあり方には、問題は感じていますが、わたしたちの取り組みは、メディアの力で市民権を得ることができました。メディアの力ってすごいんです。その後、菅野典雄村長とのつながりもあって村を手伝っていたんです。そうこうしているうちに、規制委員会の委員長をやれと言われました。
黒川:2005年ごろ、小泉純一郎政権の時代に、これからのエネルギー政策について話し合う会議に出ていました。そのときに、原子力の専門家が2100年には50%くらいが原子力になるのが適切だという話をしたんです。ちょうど2005年はアインシュタインが特殊相対性理論を発表してから100年を記念した世界物理年でした。
このアインシュタインから40年経って広島に原爆が投下されて、その後原子力はエネルギーになりました。さらに100年後の2100年に原子力が50%だなんて、なんでそんなことが言えるのか、とわたしは質問したんです。今は基礎研究を重ねていくことが大事なんではないか、と。
田中:原子力の人たちは、1000年先のエネルギーの確保、資源の確保と言うけれど、1000年後、100年後なんて見通せるはずがありません。人類史をみても、科学史をみても、そういうのは不遜だと思います。10年先、100年先を展望はするけれども、いまをきちっとやっていくことが大事なんではないかとよく言っていました。だから、原子力の世界ではわたしは変わり者でした。よく、原子力ムラの人間だって言われますが、むしろ村八分にされた村人のようなものです。
放射線量を抑えるための「除染」ではぎとった表土が積み上げられている(筆者撮影)
黒川:学者さんたちの世界まで忖度(そんたく)ではたまらないね。どの世界でも、本流にいると思われていた人よりも、そうでない人が最終的にはいい仕事をすることが多い。思いがけない発見、イノベーションとはそういうところから生まれるものだと思います。
日本のアウトプットはガタ落ち
田中:いまは、日本の基礎研究が非常に弱っています。
黒川:日本のアウトプットはガタ落ちです。これまでの日本は、上から言われたことをやっていればよかった。日本の大学は、教授が師匠になる家元制度に似ています。東大は歌舞伎、京大は狂言をやっているようなものです。上から言われたことをやっている人たちばかりだから、新しい分野の研究者がぜんぜん出てきません。最近、日本人はなぜそうなのかを考えています。
田中:わたしは原研(日本原子力研究所)にいて、最後やった仕事でいちばん大きかったのは、高エネ研(高エネルギー加速器研究機構)と原研が一緒になって、J-PARC(注:大強度陽子加速器施設。世界最高レベルの強さの陽子ビームを標的に当てて発生させた、さまざまな二次粒子のビームを使って研究をする施設。素粒子・原子物理学、物質・生命科学など幅広い分野の先端研究が行われている。2008年に第1期施設が完成した。茨城県東海村にある)を造ったことでした。中性子、ミューオン、ニュートリノといったものが利用できる施設です。日本でこういう施設を造ると、いつもアメリカよりもカネがかかるんですが、アメリカよりも安く造ることができました。
矢内原原則(注:東大総長を務めた経済学者の矢内原忠雄が1955年、「大学は、政府による原子力の研究とは一線を画す」とする原則を打ち出した)で、物理と原子力の協力関係は切れていたんですが、物理は、筑波の高エネ研が中核機関、原子力は原研が中核機関でしたが、一緒にJ-PARCという大きな共同プロジェクトを実施できました。
田中:これで、矢内原原則を実質的に乗り越えることができましたし、原子力はいつまでもエネルギーとしてだけではなく、放射線、素粒子物理学など、さまざまな基礎研究をやりながら、新しい展開を図らないといけないというのがわたしの思いだったんです。その出発点となるプロジェクトを実現し、わたしの原研での仕事は終わったんです。
「ああいう東大寺の大仏のようなものができると善男善女がたくさん集まってくる」と、どなたかが言っていましたが、現在、世界中の30カ国以上から、研究者が集まって研究をしています。黒川先生は国際人だけれども、先端の分野での研究になると、日本人なのか外国人なのかなんてまったく関係ありません。
オールジャパンよりも、もっと広い視野で考える
黒川:リニアコライダー(注:地下100メートルに全長30キロにおよぶ研究施設を建設する計画。衝突加速器で電子と陽電子を衝突させる。宇宙誕生の謎を解き明かす研究などにも活用できるとされる)を造る国際的な計画があって、システムのデザインは日本が担当したんですね。
日本は、岩手県に造るという構想がありますが、日本が資金を出したとしても、アジアに造ればいいと思っていたんです。こうした話のときには、「日本におカネを落とそう」「オールジャパンでやろう」「場所は日本に……」という発想になりがちですが、先端分野の大規模研究は特に、オールジャパンよりも、もっと広い視野で考える必要があります。
――黒川さんは2017年5月から、衆院原子力問題調査特別委員会のアドバイザリーボードで活動されています。
黒川清氏。規制当局の監視を続けることが重要だと話す(筆者撮影)
黒川:国会事故調で、7つの提言を出し、英語版も作りました。少し前に、原発を持つある国の法務大臣が来て、お昼ご飯に行きましょうと言われたので、行きました。行ってみると、日本人は私しかいなかったんですが、大臣が「国会事故調の7つの提言はどうなりましたか」と聞くので、驚き、恥ずかしかった。国際的には、そのぐらい知られています。
「規制当局に対する国会の監視」という提言1については、確かに衆院で森英介委員長の時に1回は国会事故調の委員が呼ばれて、それ以外は何もしていません。
去年は、衆院原子力問題調査特別委員会の委員長が、三原朝彦さんだったんです。彼が「どういうことをしたらいいか」と聞きに来たので、「アドバイザリーボードを作りましょう」と言ったんです。その7人の委員には、原子力の専門家だけではなく、大きな公共事業を実施する際にどうやって合意形成をするかを専門にしている研究者や、アメリカの行政活動の監視制度を研究している専門家ら、多様な分野の人に加わってもらった。すぐに何かが変えられるわけではありませんが、少しずつでも、国民や国会議員にもこの事故調の意義を理解していただき、国会のあり方について少しでも意識を変えることができたらと思っています。だから、当分このメンバーは変えないでいただきたいとお願いしています。
田中:三原先生は、わたしが規制委員会の委員長を辞める時、衆院の原子力問題調査特別委員会の委員長でした。「辞めるんなら、言いたいことを言っていけばいい」と、特別委員会の冒頭に機会を設けていただきました。そのとき、わたしが申し上げたのは「原子力を続けるか、続けないかは、規制委員会が決めることではありません。決めるのは国会です。もっと与野党を問わず議論をしてください」ということ。それから、「技術基盤が非常に弱っているので、どの方向に進むにしても、非常に心配される状況です。この点も考えてほしい」と。この2点を申し上げました。
黒川:原子力を続けるにしても続けないにしても、長期的に人材がいるということですね。
田中:やめるとしても、廃炉の問題があります。すぐに人を枯らしていい、予算を枯らしていいということではありません。
――規制委員長としての田中先生は、事故後に原発の再稼働を進める役割を担われたと見ることもできます。その一方で、飯舘村では息長く被災者の支援を続けておられます。この2つの活動が、ご自身の中で、ぶつかることはないですか。
原発をどうするかは、国民が判断しないといけない
田中:再稼働を進めたという意識はないんですよ。稼働をして、二度と事故を起こさないための条件を、きちっと見るというのが新しい規制だし、それを行いました。その結果として、原発をどうするかということは、本来、国民が判断しないといけない。まずは国会で議論をしないといけないと思いますが、そこがきちんとできていません。オール・オア・ナッシングの議論をしても、議論にならないんです。エネルギーの問題は、歴史的にみて、そう簡単な話ではありません。国際政治をみても、いまだに石油で動いているところがあります。さまざまな要素を全部含めて、どうするべきか、議論をしていく必要があります。
再生エネルギーも、大いに利用すべきだと思っていますが、まだ、技術的には未成熟です。そういった問題も含めて、判断する必要がありますが、どうしても、日本は感情的な議論に流れてしまう傾向があります。なにがなんでも、原子力を使わないといけないとは思いません。いったん間違えるとリスクが大きいですから、あまり使わないほうがいい。でも、やはり人類は原子力を選択して、相当程度使っているというのも事実です。だからこそ、今回のような事故をもう、起こしてはいけない。
飯舘村のあちこちに、放射線量を測定する機器が設置されている(筆者撮影)
原発事故の被災者の問題は、単に同情をしていてもだめなんです。子育て世代は、飯舘から避難して交通の便がいいところで生活しています。帰ってきても仕事もなければ、教育も不十分です。病院もありません。さまざまな問題が複雑に絡み合っています。外に拠点を持ったという選択を否定することはできません。しかし、それでも、飯舘に帰ってきた人、帰ってこようと思う人を、サポートしていこうと考えています。
黒川:原発の事故で、多くの人の人生が変わりました。実は、ひとごとではありません。イマジネーションを持って、自分が被災者で、小学生の子を持っていたらどうしよう、仕事はどうしようか。自分だったらどうするか、なにをすべきか、自分の立場や職業でなにができるのか。つねに考え続けていく必要があると思っています。
協力:石橋哲(衆院原子力問題調査特別委員会アドバイザリー・ボード会員)
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