2017年8月12日土曜日

祖国捨て日本へ「済州島虐殺」という地獄その2

祖国捨て日本へ「済州島虐殺」という地獄


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プレジデントオンライン
■反体制派への「ヤクザテロ」の恐怖

 民族分断に対する抵抗は、一般世論としても、大きく巻き起こります。危機感を強めた李承晩は、統一派をけん制するため、彼らを共産主義のスパイとして取り締まりました。1948年の段階で、統一派を消すために李承晩が主にとった手段は、暗殺と「ヤクザによる恫喝」でした。

 日本統治時代の朝鮮半島には、日本の統治法制に服しない「ならず者」の集団があり、闇市でさまざまな物資を流通させて稼いでいました。中国経由でアヘンなども扱っていたようです。実質的には一種のヤクザ組織で、朝鮮全土に広範なネットワークと巨大な組織を形成していました。

 戦後、李承晩政権は彼らを取り込み、「大韓民主青年同盟」を結成させ、共産主義に対する白色テロの組織として、半ば公然と支援します。大韓民主青年同盟の実質的な指導者となったのが金斗漢(キム・ドゥハン)という裏社会の大物で、後に国会議員になる人物です。さらに李承晩政権は、北の迫害を受けて南に流れて来たヤクザ たちを、同様に北から逃げてきた若者たちとともに「西北青年団 」という組織にまとめます。

 李承晩政権は大韓民主青年同盟や西北青年団を利用して、共産主義者や政権に批判的な者を暗殺したり、恫喝したりしていました。警察や軍などの正規実働部隊には行動させず、住民票もろくにない(つまり、不法行為の手がかりが残りにくい)ヤクザに、反対派への示威行動をさせたのです。李承晩の番犬のような役割を演じた大韓民主青年同盟や西北青年団は、アメリカからもその存在を認められていました。
■政権基盤の弱さゆえの暴走

 李承晩が1948年に入り、南部単独での国家樹立を打ち出すと、統一派の反発が南部全域で強まりました。特に、済州島民は政権批判を強めました。済州島は李王朝の時代から弾圧と迫害の歴史を有しており、反体制的な色彩の強い地域でした 。

 李承晩は自分に歯向かう「生意気な」地域の代表として、済州島を選び、見せしめに島民を大量処刑することに決めたのです。

 この時、済州島に軍や警察とともに派遣されたのが西北青年団でした。ヤクザ者の彼らは島民を略奪・性的暴行・虐殺する「自由」を与えられ、その結果、島民の5人に1人にあたる6万人が殺害されて、済州島の村の大半が焼き尽くされます。

 当時の国防長官の申性模(シン・ソンモ)は済州島民の虐殺について、「西北青年団」が島民に乱暴を働いたことであると答え、軍や警察の関与を平然と否定しています。

 済州島虐殺事件は、この連載でも前に触れた「漢江橋爆破事件」「保導連盟事件」と並ぶ、韓国当局による自国民の虐殺事件です。しかし、李承晩政権下の自国民虐殺事件はこれだけではありません。主なものだけでも、以下のようなものがあります。

 ・高陽衿井窟民間人虐殺事件(1950)
・江華良民虐殺事件(1951)
・山清・咸陽事件(1951)
・居昌虐殺事件(1951)

 これらは共産主義者やそのスパイ、北朝鮮に協力したと見なされた一般民間人を、当局が処刑・虐殺した事件です。ただ、それは建前上の理由であり、実際には、政府に批判的な人々やその家族を消すということが目的でした。日本統治時代の親日派も処刑されています。

 当時の大統領李承晩は政権基盤を持っていませんでした。戦前、アメリカに亡命していた経歴があったため、アメリカ人のコネで、アメリカ人によって担がれた傀儡政治家でした。戦後、臨時政府の首班となり、そのまま、韓国大統領となります。李承晩は自らの政権基盤を固めるために、反対派を大量処刑・虐殺します。政治経験の未熟な李承晩は、恐怖政治という古典的な手段以外に頼れるものがなかったのです。

 さらに、1950年に朝鮮戦争が起こると、前回この連載で解説した保導連盟事件に連動し、済州島での取り締まりが強化されました。刑務所に収監されていた容疑者まで含め、大量処刑・虐殺が1953年の休戦の時を超えて54年まで続き、約28万人いた島民は3万人弱にまで激減したとされます。

 死体は海に投げ捨てられ、その多くが対馬や北九州に流れ着き、対馬や北九州の人々が埋葬し、供養しました。

■コリアタウンの賑わいの陰に

 また、この期間、小さな船で命からがら済州島を脱出する者が絶えず、対馬や北九州、山口県の海岸から日本へ入り、彼らは在日韓国人となります。彼ら済州島出身者の多くが、大阪市生野区の鶴橋に定住し、コリアタウンを形成していきます。

 どうして、鶴橋だったのでしょうか。1920年代から大阪市の市域拡大開発が続き、生野区などの西部地域で大規模な土木工事が展開されました。朝鮮人の出稼ぎ労働者もこの土木工事に積極的に受け入れられ、当時から朝鮮人集落の原形がいち早くできていました。その後も集落は発展していき、1948年の「済州島虐殺事件」後、多くの済州島民が鶴橋を頼り、移り住んだのです。事情を理解していた大阪市側も、彼らにさまざまな行政的支援を与えています。

 鶴橋のコリアタウンは、その存在そのものが、韓国の凄惨(せいさん)な戦後史の証人なのです。

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宇山卓栄(うやま・たくえい)
1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。個人投資家として新興国の株式・債券に投資し、「自分の目で見て歩く」をモットーに世界各国を旅する。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。
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著作家 宇山 卓栄
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