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コンクリート内部の亀裂、乳がんや電池内部の欠陥、衣服の下や荷物に隠した銃、さらには月面の地下空洞の有無などを“透視”し、検知・検出することに使える方程式が神戸大学の研究者によって発見され、その装置の本格的な実用化が間近に迫っている(図1)。乳がん検診では、従来の検診手法に比べて診断精度が格段に高まるケースが見込める。しかも受診者にとっての負担を大幅に低減できるようになる。
散乱した波動から物体の形状を逆算
この“透視”する方程式を発見したのは、神戸大学 数理データサイエンスセンター 教授の木村建次郎氏(図1(b))。方程式の発見は2012年でその時点で実用化を目指すベンチャー、Integral Geometry Science(IGS)を興した。だが、研究を始めたのはさらに10年超遡る。「この方程式の探索は手計算で試行錯誤するしかなく、10年かかった」(木村氏)。ただ、これによって「波動散乱の逆問題」とも呼ばれる、それまで未解決だった数学的問題を解決した。
そのやや詳しい説明は本記事後段でするが、直感的な理解のため、まずは「波動散乱の順問題」を説明する(図2)。物体に電磁波を照射すると物体の主に表面で散乱される。このとき、物体の形状が既知であれば、電磁波がどのように散乱するか計算できる。これはCG(コンピューターグラフィックス)のレイトレーシングなどにも使われている。
一方、その逆問題は、物体の形状が分からない状態で、散乱してきた電磁波や超音波の振幅データを基に、物体の詳細な形状を知ることができるかといった問題だ。これは可視光であれば、レンズを通して網膜や撮像素子上に実像を結ばせる、すなわち目やカメラが行っている「見る」「撮影する」ことそのものでもあるが、レンズがほぼ使えない一般の電磁波や超音波に対して、しかも散乱した波の位相情報を使わずに同様なことが可能かどうかはこれまで分かっていなかった。
木村氏が発見した方程式に基づき、適切な電磁波または超音波などを物体に照射し、その反射波を測定すれば、これまで障害物に遮られて可視光では見ることができなかった物体、あるいは対象物の表面形状や内部構造をこれまでにない分解能で知ることができるようになる。
乳がんはX線や超音波にとって実は苦手分野
この方程式や技術の応用の幅は非常に広いが、木村氏が実用化に注力している用途の1つが、乳がんをX線ではなく周波数が20GHzの微弱なマイクロ波で画像化する「マイクロ波マンモグラフィー」である(図3)。2013年時点で既に試作機を作製。その後、2016~2022年の約7年間、のべ740人の被験者が参加した臨床研究を経て、日本産業規格(JIS)の取得、そして仕様の確立を完了。現在はその医療機器の認可プロセスの最終段階といえる治験を進めている段階だ。
仮にこの認可プロセスが順調に進み、医療機器として使えるようになればそのインパクトは非常に大きい。
X線や超音波(エコー)、MRIなど身体内部の状態を知る手段は既に幾つか開発され、実用化されている。乳がんの検出についてもX線を使うマンモグラフィーや「乳腺エコー」がよく使われている。ただ、X線や超音波は実は乳がんの検出には必ずしも最適な診断用媒体とはいえず、検診の手段としては有効性が限定的だった。
具体的には、X線は骨の状態を知る上では最適だが、骨以外の生体組織の画像化では安全なX線強度で高いS/Nを得るのが容易ではない(図4)。マンモグラフィーを用いると早期の乳がんに多い石灰化をおこした組織が白く写るが、良性のケースが多い上に、乳腺が密集した組織も同様に白く写ってしまうため、X線画像の診断には深い経験が必要になる。特に、40歳未満の日本人女性に多い「高密度乳房」の診断は容易ではないようだ。加えて、そうしたケースでは検診時に痛みを伴うことが多く、受診者の負担が大きかった。放射線被曝があることで、妊婦の検診にも向かない。
一方、乳腺エコーは受診時の身体的負担が少なく、放射線被曝もない一方で、早期の乳がんの発見には課題がある。MRIは診断の有効性が比較的高く手術前診断に使われているが、機器が大型かつ億円単位と高価で利用費用が高い。また、撮影に30分ほどの時間がかかる上に、ガドリニウム(Gd)を含む造影剤を使うことで人によってはアレルギー反応が出るため、健康診断などでの不特定多数の人のスクリーニングには向かない。
パソコン+専用プローブで構成
これらに対し、IGSのマイクロ波マンモグラフィーでは、乳がんを高い分解能で画像化でき、しかも正常な乳腺は検知しないことで、X線版などに比べて発見が容易だという(図5)注1)。
そのポイントの1つはマイクロ波が乳がんの検出に最適である点。乳房の正常な組織は脂肪分が多いが、がん細胞は血液が集まり水分が多い。この脂肪分と水分の境界を検出する上でマイクロ波が良い選択になるのである。
ただし、X線やエコーと違ってマイクロ波では細いビームをピンポイントに照射することが難しく、乳がんに照射しても、あちこちに反射、つまり散乱して戻ってくる。これでは、がんの形状や位置を正確に知ることはできない。それが木村氏の方程式を解くことで、高い分解能での乳がんの画像化が初めて可能になった。
ちなみにこのマイクロ波マンモグラフィーでの検診時は乳腺エコーと同様、プローブで乳房表面を走査するだけで痛みはない。エコーではプローブの密着性の確保にゼリーを利用するが、マイクロ波マンモグラフィーでは形状の保定のために乳房に専用のシートを貼る。
機器1台は病院でよく使われる移動用ラックに収まる。「検診に必要な時間は1人2分、着替え込みなら同10分」(木村氏)。データの解析・画像化はノートパソコンで約10秒、米Intelの「Core i7 4コア」級のマイクロプロセッサーを搭載するパソコンなら1~2秒で済むという。システムコストは既存の乳がん検診装置に比べて格段に低いもようだ。
電池の自己放電を検知
マイクロ波マンモグラフィーに先んじて実用化が始まる見通しの応用例も複数ある。リチウム(Li)イオン2次電池(LIB)の負極にデンドライト(樹状突起)が形成されているかどうかの検査や、通り過ぎるだけで衣服の下や荷物に隠し持った銃などを検知できるウォークスルー型のセキュリティーゲートだ。
LIBの検査では、電池をパッケージ化する前の薄いセルの段階でこの技術を適用する(図6)。正確にいえば、利用する方程式は図1とはやや異なり、利用する電磁波も周波数が約1Hzのほぼ静電磁界である。負極にデンドライトが形成されているとそこから自己放電が進む。それを外部の電極で検知できるという。
実用化は2023年度中にも始まる。複数の電池メーカーまたは電池関連メーカーによる検査装置の導入が決まっているという。
銃かどうかを見分ける
ウォークスルー型セキュリティーゲートの実用化もまもなく始まる。システムはアンテナのような送受信素子多数から成る。周波数なども含め方式の詳細は明らかにしていないが、マンモグラフィーよりはLIBの検査システムに近いという。
これが、従来の金属探知機などと異なる点は、(1)ゲートで立ち止まる必要がなく、荷物を持ったまま、しかも一度に複数の人が通過しても検知可能である、(2)銃や刃渡り5cm以上の刃物などの形状まで分かる、(3)アルミニウムの棒などは検知しない、といった点。危険物の形状まで分かるために、腕時計を腕に装着していたり、万年筆、財布、スマートフォンなどがポケットに入っていたりしても危険物として検知しない(図7)。チェックを受ける側の人の負担が格段に減るわけだ。
IGSは、このセキュリティーゲートをパネル展示ながら2023年10月の展示会CEATEC 2023に出展した。同展示会には、東芝もミリ波、三菱電機はテラヘルツ波を用いたウォークスルー型のセキュリティーゲートをそれぞれ出展したが、「複数の人を同時に検査できるのは我々だけ」(木村氏)とする。床にシステムを埋め込めば、100人が同時に通過しても対応可能だという。
6次元のヘルムホルツ方程式
ここから、マイクロ波マンモグラフィーで利用する図1の式の導出についてポイント、あるいは考え方の枠組みの説明を試みる。ただし、その理解には少なくとも電磁気学で利用するポアソン方程式の導出や解法、そしてできれば場の理論の摂動論についての知識が必要でややハードルが高いかもしれない。
形状が分かっていない物体に波動を照射し、その反射波を測定して物体の形状を逆算する問題は、Δをラプラス作用素(またはラプラシアン、空間座標による2階偏微分作用素の1種)として波動方程式(Δ-時間の2階偏微分)φ=0 がベースになるため、時間の要素が重要に思える。しかし、散乱場の理論ではしばしば波動方程式の解を振幅と時間変動成分に変数分離することで、問題を振幅の成分の方程式、すなわちヘルムホルツ方程式(Δ+k2)Φ=0、kは波数、言い換えれば、楕円型偏微分方程式の境界値問題に帰着させる。木村氏の手法も方向性はこれと同じである。
木村氏の手法のポイントの1つは、波動の送信点(r1)と受信点(r2)、そして時刻(t)をそれぞれ独自な変数として6次元の方程式を考える点だ(図8)。「入射波と反射波は対等なものとみなしている」(木村氏)。これは一般には7変数(x1、y1、z1、x2、y2、z2、t)だが、x1=x2となる座標系(平面座標または円筒座標)を選ぶことで6変数問題として扱える。
時刻も座標変数の1つに
ここで時刻tが方程式に残っているのは、時刻tを座標変数の1つとして扱うためだ。
楕円型偏微分方程式の最も基礎的な例が、電磁気学のポアソン方程式ΔΦ=ρ(ρは電荷密度)である。複数の点電荷qi(ri)が遠方につくる電界E(r)は、クーロンの法則によりそれらの線形な積算(または積分)で、E=Σqi/|ri-r|と書ける。これを、Eの静電ポテンシャルΦ(E=-▽Φ)で書き直した式がポアソン方程式だ。
クーロンの法則またはポアソン方程式は、電荷の分布を基に電界の分布を知る式だが、逆に電界の分布から電荷の分布を与える式とみることもできる。
木村氏の方程式でも理論上の枠組みはこのポアソン方程式とほぼ同じである。ただし、波動の送信点、受信点、および測定する物体の位置ξをその時刻tの違いでも区別し、それらをすべて積算する。これにより、プローブを動かしながら測定を繰り返すことで、測定データを増やすことができ、精度を高められる。
微分方程式の発見に10年
ちなみに、電界Eの式中の1/|ri-r|はグリーン関数とも呼ばれ、一般に電荷など粒子が外界、あるいは粒子間に及ぼす作用や変化を記述する。
波動の散乱問題におけるグリーン関数は以前から知られ、地震波の解析から「ファインマンダイアグラム」などでも知られる場の理論の摂動論の記述にまで幅広く使われてきた。このうち、木村氏は、「松原グリーン関数」と呼ばれる量子統計力学における知見を参考にしたとする。グリーン関数G(r1、r2、ω)、(ωは角周波数)が分かれば、いわゆる順問題の計算はできる。
木村氏の発見の最大のポイントは、逆問題を解くため、このグリーン関数のフーリエ変換G-(r1、r2、t)に対する作用素をLとし、L(G-)=0 を満たすLの具体的な式を見つけたことだった。ちょうどラプラス方程式やポアソン方程式におけるラプラシアンΔの発見に相当する。この結果、散乱の逆問題も楕円型微分方程式の境界値問題に帰着できる。ちなみに境界値は入射波および反射波の測定値である。
木村氏はこのLを、10年にも及ぶ手計算による試行錯誤の積み重ねで発見したという。「(18世紀末~19世紀初頭にラプラス方程式やポアソン方程式を発見した)ピエール=シモン・ラプラス氏やシメオン・ドニ・ポアソン氏も同様だったはず」(木村氏)。
解くのは容易
もっとも、得られた作用素Lは、Δの2乗などを含む4階の偏微分方程式になっており、有限要素法などの数値計算で精度良く解くのは一見、非常に難しそうだ。ところが、測定する物体の寸法、またはその表面形状の凹凸の寸法よりも、波長がはるかに短い(短波長近似)といった自然な近似と、解の関数形を適切に仮定することなどで、境界値データを基にほぼ解析的に解けてしまう。これが、ノートパソコンでも解析や画像化ができる理由の1つでもある。
月の地下空洞探索にも
木村氏は、この技術は月面での地下空間の探索にも利用できるとする。月は水分がない、あるいは非常に少ないため、電波で地中の空洞を探せるからだ。適切な地下空洞を見つけられれば、そこに基地を建設することで、強い宇宙放射線を避けることができるという。
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