2022年1月10日月曜日

「他市の教員にうらやましがられる」──小中学校のICT基盤をクラウド化、教員もPC持ち出し可能に 独自施策でAzure移行した埼玉県鴻巣市

吉村哲樹

開発環境をAzureに移行したらテレワーク中の出社が減りました 「オンプレはもう限界」──ゲーム企業が成し遂げたクラウド移行の舞台裏

 埼玉県のほぼ中央に位置し、約11万7000人の人口を抱える鴻巣(こうのす)市。文部科学省が打ち出す「GIGAスクール構想」に従い、全国の教育委員会が「生徒1人1台のPC」などの施策を進める中、同市はGIGAスクール構想が発表される前に独自のICT教育施策を進めていた。

 その結果、全国でも珍しい「公立小中学校が活用する教育ICT基盤のフルクラウド化」を4月に実現し、教員が自宅などにPCを持ち出せる環境を整えられたという。

 「研修や会議の場にPCを持ち込む教員が増えてきた。民間企業ではごく当たり前の光景だが、PCの持ち出しに厳しい制限が掛かっている教育現場ではとても新鮮。県の研修の場に鴻巣市の教員がPCを持ち込んだりすると、他市の教員からうらやましがられることも多々あるらしい」

 クラウド化の影響について、新井亮裕さん(鴻巣市教育委員会 教育部 教育総務課主任)はこう話す。教育現場のデジタル化に加え、教師のワークライフバランス改善にも貢献したという一連の取り組みは、どのように成し遂げられたのか。鴻巣市教育委員会による施策の一部始終を新井さんに聞いた。

クラウド化のきっかけは機器類のリース期限

 ICT基盤刷新の検討が始まったのは2018年。鴻巣市ではこれまで、学校での校務や授業で利用されるシステムの大半を市庁舎に設置したオンプレミスサーバで運用していた。しかし、当時利用していた機器類のリース期限が20年8月に迫っていたことから、これを機にICT基盤を時代に沿ったものに刷新することを決定。

 19年には「鴻巣市学校教育情報化推進計画」を取りまとめ、教育委員会を挙げてICT基盤の刷新に取り組むことを決めた。基盤を刷新しようと考えた背景について、新井さんはこう話す。

 「現在、国際的な産業競争力のトレンドがICT産業に移りつつあるにもかかわらず、現在の日本の教育は工業社会のモデルを基に作られている。OECDの国際的な学習到達度調査『PISA2018』でも、学校の授業におけるデジタル機器の利用時間がOECD加盟国中で最下位になっていた。こうした状況を変えていきたいという問題意識があった」

「場所や時間を問わずアクセスできる環境を」鴻巣市の決断

 この計画では、新しい教育ICT基盤を全てクラウド環境に移行することを定めた。クラウド化を決断した理由は大きく分けて2つ。1つは運用効率や耐障害性の改善だ。

 「自庁式(オンプレミス)ではシステムの運用や更改に多くの人手やコストを要するが、クラウドならこれらを節約できる他、機器の故障や停電、設備点検などによるシステム停止を避け、より可用性を向上できると考えた」

 もう1つは、外部からのアクセス性の改善だ。鴻巣市ではこれまで、生徒の個人情報などの漏えいを防ぐため、教員が普段教務で利用するPCは、学校外へ持ち出せないよう厳しく制限していた。

 しかし教員の中には、家庭の事情などでやむなく自宅で仕事をしたり、休日出勤したりせざるを得ない者もいるという。こうした教員の負担を軽減してワークライフバランスを改善するには、リモートワーク環境の整備が不可欠だった。

 学校で学ぶ生徒たちも、自宅のネットワーク環境からインターネット経由で学習システムにアクセスできれば、より学習効果が高まる。そのためにも、もともとインターネットアクセスを前提としているクラウドを活用する必要があった。

 「教職員や生徒が場所を問わず、いつでもシステムにアクセスできる環境を実現したいと考えていた。そのためにはクラウドの方が自庁式より明らかに有利だった」

 そこで鴻巣市は早速、クラウドベースの教育ICT基盤の提案を公募。複数のベンダーがこれに応じた中で、同市が最も要件を満たしていると判断して採用したのが、SIerの内田洋行(東京都中央区)が提案した「Microsoft Azure」を活用する案だった。

「学術情報ネットワーク」との接続性がAzure選定の決め手に

 鴻巣市がAzureを採用した理由は2つある。1つは同サービスが、国立情報学研究所(NII)が構築・運用する広域ネットワーク「学術情報ネットワーク」(SINET)と専用線で直接接続できるためだ。

 SINETは、全国のさまざまな大学や研究機関が、学術研究のための情報流通などを目的に参画している通信環境。全国どこからでも最大100Gbpsで通信できることなどが特徴で、19年からは全国の教育委員会傘下にある公立小学校・中学校も利用可能になっている。これを踏まえ、鴻巣市は公立小学校・中学校における初の事例として、SINETの導入を決めた。

 SINETを採用したのは、通信の安定性やセキュリティを確保するためだ。新井さんによれば、教育ICT基盤のフルクラウド化に際しては、生徒の個人情報をはじめ校務で取り扱う情報を漏えいやサイバー攻撃から守るため、通信の品質だけでなくセキュリティ対策にも気を配る必要があったという。

 「SINETはネットワーク品質が安定しており、かつL2VPN接続が無料で利用できる。インターネットへのローカルブレイクアウト(拠点に直接インターネットにアクセスできる回線を用意し、特定サービスのトラフィックは直接インターネットと送受信する仕組み)と比べるとセキュアで安定した通信環境を使えると考えた」

 鴻巣市がAzureを採用したもう1つの理由はコストだ。Azureは専用線サービス「ExpressRoute」を使うことで低コストでSINETと接続できるため、通信品質やセキュリティとコストを両立しやすかったという。

 こうした背景もあり、鴻巣市はSINETと同じデータセンター内に独自の閉域網を新しく構築し、市内の小中学校や市教育委員会からはここに直接接続する仕組みを採用。この閉域網とSINETは5Gbpsの構内回線でつなぎ、さらにSINETとAzureの間は1GbpsのExpressRouteで接続することで、SINETを活用したエンドツーエンドのクラウド接続を実現した。

構築期間は約半年、ゼロトラストセキュリティも意識

 こうしてSINETと接続したAzureには、校務を支援するシステムと教員の勤怠管理システム、テストの採点などを支援するシステムを移行することに決めた。教員は学校の校務系ネットワークから鴻巣市の閉域網に接続することで、SINETを通じてAzure上のシステムにアクセス可能。市が配布する、専用SIMが挿さったモバイルルーターを利用すれば、自宅環境からもアクセスできるようにした。

 基盤のクラウド化に合わせ、授業で利用する学習用アプリケーションも、全てSaaSとして提供されているものに切り替えることに決めた。小中学生が生徒向けネットワークからこれらのSaaSにアクセスする際は、いったん閉域網経由でSINETネットワークに入り、そこからさらにインターネットを経由して接続する仕組みだ。

 ただ、こうして教員や生徒が自宅など外部の環境からクラウド環境にアクセスするとなると、従来のように校内・庁内ネットワークと外部ネットワークとの境界線上でセキュリティ対策を施す「境界型防御」は通用しなくなる。そこで、鴻巣市はいわゆる「ゼロトラストネットワーク」をベースにした新たなセキュリティ対策を講じる必要があった。

 「SINETを活用しようと考えた理由の1つには、インターネットアクセスをSINETに集約することでセキュリティ対策を一カ所で集中的に行えることもあった。これに加えて、『EDR』(Endpoint Detection and Response、利用者の端末を監視し、不審な動きがあれば通知する仕組み)や『IAM』(Identity and Access Management、IDとアクセスの管理)をはじめとするさまざまなゼロトラストセキュリティ対策を導入する必要もあった」

 ただ、Azureの各種セキュリティ機能やPaaSを活用したこともあり、これらの対策にさほど時間はかからなかったという。ファイルサーバやチャットツールなど、Azure上で活用するサービスやツールをほぼ全てMicrosoft製品に統一したこともあり、基盤の刷新プロジェクトは約半年間で完遂できた。

教師も家で業務しやすく 従来必要だった“複数PC体制”も解消

 こうして鴻巣市は21年1月、5校のテスト校を対象にこれらの仕組みを先行導入。さまざまな検証・評価を行った上で、4月の新学期からGIGAスクール構想に基づく「生徒1人1台のPC配布」と同時に、小学校19校と中学校7校で新しい教育ICT基盤の運用を開始した。

 これにより教員は学校の外にPCを持ち出し、自宅などの環境からクラウド上の校務システムを利用できるようになったため、業務効率が向上。生徒も普段授業で利用しているPCを持ち帰り、自宅のインターネット環境からSaaSの学習アプリに直接接続して勉強できるようになった。通信の品質も安定しているという。

 教員がPCの使い分けをしなくてよくなったという効果もあった。他の教育委員会では情報漏えい対策のために、生徒の成績や出欠など個人情報を扱う際はインターネットと完全に分離した「校務系ネットワーク」を利用し、外部とのメールのやりとりなどインターネットを利用する際は別途「校務外部系ネットワーク」に接続するよう定めているところも多い。

 この場合、校務系ネットワークと校務外部系ネットワークとで異なる端末を使い分けなければならないが、鴻巣市の新しい基盤では1台のPCでさまざまな業務をカバーできるよう仕組みを刷新した。他の自治体から赴任してきた教員の中からは「とても便利で仕事がはかどるようになった」などの声を聞くという。

 「もともと『PCを文房具のように使いこなしてほしい』というビジョンを掲げていたが、こうして教員も生徒もPCを気軽に持ち歩いていろんな場所で業務や学習に活用している姿を見ると、当初のビジョン達成に向けて大きく前進できていると感じる」

クラウドならではのメリットを追求 データ分析など利活用も視野

 クラウド活用により、教師・生徒ともに新しい業務や学習の形を手に入れた鴻巣市。新井さんは今後、データ利活用の促進など、クラウドのメリットをさらに追求していきたいと話す。

 「あくまで個人的な展望だが、校務支援システムやMicrosoft Teams、Officeなどの利用データをそのままAzure上のデータウェアハウスやBIツールで集計・分析することで、高度なデータ利活用が比較的容易に実現できるのではと考えている。これ以外にも、今後さまざまな面でクラウドならではのメリットをさらに引き出していきたい」

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