<1920年代後半から1930年代にかけ、大半の中東諸国で日本は最大の貿易相手国の1つになっていた。日本とイラクの外交関係樹立80年に振り返る、知られざる歴史>
今年は日本とイラクの外交関係樹立80周年に当たる記念すべき年である。1939年11月30日、イラクの首都バグダードに日本の公使館が開かれたのだ。といっても、大半の人にとってはどうでもいいことかもしれない。日本国内でとくに大きな盛り上がりがあるわけでもなく、私の周りの中東に関わる人たちのあいだですら、ほとんど話題にものぼらない始末である。
ちなみに今年は日本とイランの外交関係樹立90周年でもある。10年分古いだけあって、まだ、こちらのほうが注目度は高いかもしれない。あちこちでチラホラとイベントが開催されているようだ。イランを専門とする研究者も多いし、さすが中東の大国という感じだろうか。
安倍首相も、90周年とは関係ないかもしれないが、6月にイランを訪問し、ハーメネイー最高指導者やロウハーニー大統領と会見したのは記憶に新しいところだろう。
私はイラク専門家ではないが、わずか4か月とはいえ、曲がりなりにもイラクに住んでいたので、80周年を寿ぐ気持ちは満々である。幸い在バグダード日本大使館から依頼を受け、イラク人向けに日本とイラクの関係史について講演する機会を得た。
ただ、予算の関係でイラクにいくことはできず、スカイプで日本とイラクを結び、PCの画面に向かって話をするという、いささか味気ないものであった。しかし、イラク側の聴衆はたいへん熱心で、多くの人たちが講演後の質疑応答も含め、積極的に参加してくれた。日本に対する彼らの期待が大きいこともひしひしと感じられた。
中東で石油が発見される前から、強力な経済関係を構築していた
なお、私がイラク人向けにしゃべったのはもっぱら古い話で、1939年の日本公使館オープンごろまでの二国間関係についてである。日本人で最初にイラクにいったのは、記録で確認できるかぎり、1880年の吉田正春を筆頭とする外務省代表団だろう。吉田は現在の高知県出身で、父親は土佐藩の参政、吉田東洋である。東洋は1862年、土佐勤王党のリーダー、武市半平太の命で暗殺されている。まだまだ「鎖国」の残り香ただよう時代だ。日本が中東に目を向けたのはかなり早いといえる。
吉田使節団の目的は、イランやオスマン朝との国交樹立の可能性を探るためであった。ただし、吉田らがイラクを訪問したときは、イラクはオスマン帝国の一部にすぎず、イラクへの立ち寄りは文字どおり付録みたいなものであった。吉田使節団には横山孫一郎という、当時大倉財閥の幹部だった国際通の経済人が同行していた。これは、日本が中東と通商関係を開くことを強く意識した人選といえる。
実際、吉田使節団後の日本と中東との関係を見てみると、政治的な関係よりも経済的な関係のほうが圧倒的に大きい。吉田のあと、1896年にイラクを訪問した日本陸軍の情報将校、福島安正は、すでにイラク南部のバスラで大量の日本製マッチが売られていたことを発見している。しかも、品質は劣悪で、日本の商人たちが、目先の利益しか考えず、あくどい商売を行っていると批判しているのだ。
日本と中東の関わりというと、多くの人が石油を思い浮かべるだろう。しかし、実際には中東で石油が発見されるずっとまえから、日本は中東の各地域と強力な経済関係を構築していたのである。20世紀に入ると、日本の中東進出はさらに加速し、1920年代にはイラクを含む大半のアラブ諸国で日本は主要貿易相手国にまでなっていた。意外と知られていないが、たとえば、イラクでは1920年代からアサヒビールまで売られ、人気を博していたのだ。
もちろん、日本は、石油がいかに重要であり、そして中東で油田が発見されるかもしれないことを十分理解していた。イラクにおける油田発見は1927年だが、それ以前に有名な地理学者の志賀重昂や地質学者の金原信泰、日本石油や帝国石油の幹部を務めた大村一蔵らがイラクを訪問、イラクにおける石油の可能性に言及しているのだ。
たしかに、この時期、アカデミズムや軍、外務省、商工省(現在の経産省)は石油からみた中東の重要性を盛んに喧伝しており、それもあって日本国内で一種の中東ブーム、イスラーム・ブームのようなものも起きていた。
巷では、欧米列強の植民地支配に苦しめられていた中東や中国のムスリム(イスラーム教徒)たちが日本に期待し、日本をアジアのリーダーと考えているなどといった言説も氾濫していた。このころ日本ユダヤ同祖論を主張した酒井勝軍やキリストが日本で死んだと唱えた山根キクなど、日本と中東を無理やり結びつけるトンデモ説が現れたのはこうした「ブーム」と無関係ではないだろう。
ちなみに、当時、日本における数少ないイスラーム世界の専門家と目されていた外交官の笠間杲雄は、日本がリーダーとなるべきだと考えているイスラーム教徒などほとんどいないと冷静に分析し、こうした浮ついた風潮に警鐘を鳴らしている。
イラクの街中は今、チープであやしげな中国製品で満ち溢れている
前述のとおり、1920年代後半から1930年代にかけて日本は、大半の中東諸国で最大の貿易相手国の一つになっていった。ただし、日本製品はほとんど、いわゆる「安かろう悪かろう」で、値段は安いけれど品質は劣悪というものであった。しかも、それが洪水のように市場を席巻したため、あちこちで摩擦を起こしていたのである。
1930年代には日本からの定期便がバスラに就航し、それもあってイラクの輸入に占める日本の割合は20%を超え、繊維製品に至っては75%を占めるに至っていた。イラクでは1930年代になると、各地で日本製品を排斥する暴動さえ発生していたのである。
他の中東諸国でも、暴動こそ起きずとも、状況はそれほどかわらなかった。湾岸地域では「日本製」というアラビア語が「尻軽女」を意味するなど、日本製品に対する評判は最悪であった(ただし、安いから売れる)。
イラクでは、日本製品に対し高い関税をかけ、しかも、日本がイラク製品を輸入しないとさらにその関税を強化するという政策を打ち出した。とはいえ、日本がイラクから輸入できるものといっても高が知れている。1939年に日本がイラクに公使館を設立したのは、実はこのイラクの関税を撤廃させる交渉を進めるのが主たる目的だったのである。
この時期だと、すでにイラクでは石油が発見されていたが、その当時のイラク石油に対する日本の関心はそれほど高くなかったようだ。1930年代はじめに英国の石油会社からイラクの石油利権を購入しないか打診があり、政府はそれなりに関心を示したのだが、ほぼ民間企業に丸投げで、その民間企業はイラクに関する情報すらないのに何でわれわれが、と尻込みするばかり。結局、この話は立ち消えになってしまった(もし、このときがんばっていたら、イラク北部のガイヤーラ油田は日本の権益になっていたかも)。
やがて、日中戦争がはじまると、日本は国際社会から孤立していく。日本政府はイラクでは反英勢力に肩入れするなどいろいろ画策していたようだ。だが、結局イラクは連合国側につき、1942年に日本と断交、宣戦を布告した。貿易交渉どころか、外交関係そのものが途絶えてしまったのである。
大半のイラク人には、戦前の品質の悪い日本製品の記憶などもはや存在しない。数年前にUAEのアブダビから飛行機でイラクに入ったとき、乗客の多くは中国人であった。あまり身なりがいいともみえなかったのだが、どうやら中国製品を売る商人だったようだ。
イラクの街中はチープで何だかあやしげな中国製品で満ち溢れていた。ほんのわずかだが、日本製家電製品もあったのだが、あっても1980年代の骨董品か、そうでなければ日本製に見せかけたニセモノばかりであった。もしかしたら、戦前の日本製品のイラク進出もこんなだったのかもしれない。
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筆者の講演を熱心に聞くイラクの聴衆(写真提供:在イラク日本国大使館)
青森県新郷村にある「キリストの墓」とされる墓(筆者撮影)
バスラの市場にある時計屋、看板には「スイス・日本製時計」とあるが......(筆者撮影)
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