トヨタ自動車の社員がパワハラが原因で自殺したことをめぐり、トヨタと遺族側が和解した。トップ主導でまとめた再発防止策は、超巨大企業の風土を変え、パワハラを無くすことができるのか。

弱い相手に横暴 重要情報共有せず

 4月7日、大阪市内の会議室。2017年に命を絶った男性社員(当時28)の遺族らとトヨタの豊田章男社長らが、2度目の面会をした。

 和解の合意書にサインを交わす日。死亡に会社の責任があることを認め、再発防止策を徹底するとの内容だった。だが7万4千人の社員を抱えるトヨタがこの紙で変われるのか。遺族らから問われた豊田氏はこう答えた。「仕組みは作ったが完成ではない。時間はかかるが、最終責任者である私がこの気持ちを持ち続け、この事実を元に改善し続けていく」

 地方大学を卒業した男性が東京大大学院を修了して入社したのは15年4月。しかし16年3月以降、上司のパワハラを受けるようになる。

 社内調査などによると、概要はこうだ。「こんな説明ができないなら死んだ方がいい」「学歴ロンダリングだからこんなこともわからないんや」。繰り返し言葉によるパワハラを受けた男性は7月に休職し、10月に別の上司の下で復職したが、仕事で重圧がかかると手が震えた。翌年7月に両親にメールを送る。「会社ってゴミや、死んだ方がましや」。8月には会社の同期に「自殺するかもしれない。ロープを買った」。盆の帰省を終えて寮に戻ると、両親に「絶望都市に帰ってきたわ」とメールした。10月に死亡し、19年9月に労災認定された。

 死亡の原因がパワハラだとは、豊田氏に報告がなかった。同11月の労災認定の報道で初めて知った豊田氏は、副社長と2人で遺族らと面会。それまでトヨタは会社の責任を認めていなかったが、この場で自ら責任を認めた。さらに自身に報告がなかったことを「これが今の会社の体質」と表現し、再調査と再発防止策の実行を約束した。

 再調査では情報共有の不備も判明。男性の上司がパワハラをしたことを産業医側は知っていたが、その上の幹部に報告しなかった。また男性の復職時、新たな上司に休職の経緯が伝えられず、男性は復職後、パワハラをした上司と近い席で半年近く仕事をした。

 立場の弱い相手に横暴に振る舞う、重要な情報を共有しない――。今回の問題をこう分析するトヨタ。豊田氏自身がこうした「会社の風土」を変えると宣言して再発防止策をまとめた。人事評価では人間性を重視し、男性の労災認定後に導入した「360度フィードバック」により、管理職を社内外の十数人が評価。適性に欠ける点がある人には改善を求め、パワハラをしない職場を目指す。

 また就業規則を改め、パワハラの禁止を社員の遵守(じゅんしゅ)事項として明記。パワハラをした際の懲罰規定についても減給や降格、懲戒解雇など具体的に規定した。

 事後の対策では、点在していた相談窓口を統一し、利便性を向上。休職者の復帰の際にはメンタル面での専門家ではない産業医らが、社内で常勤の精神科医に第三者的な観点から助言を仰ぐ体制を整えた。パワハラが疑われる事案があれば、綿密な調査で事実関係を把握して、対策につなげることも盛り込んだ。

 遺族側代理人の立野嘉英弁護士は、こうした重層的な取り組みを評価。「日本を代表する企業として、パワハラ防止の先陣を切ってほしい」とする。

 ただ重要なのは、実践できるかどうかだ。遺族は取材にこうコメントする。「本当にトヨタが生まれ変わったと言えるのかは、今後の会社の取り組みや、労災への対応がどうなるかにかかっている。パワハラへの対処を間違える事のないよう、切に願うとともに今後も注視して参ります」(遠藤隆史、千葉卓朗)

厚労省が指針 企業は模索

 トヨタが危機意識をもって動く背景には、パワハラ防止があらゆる企業の経営課題になった事情もある。

 厚生労働省は20年6月施行の改正労働施策総合推進法(パワハラ防止法)で、「指導」との境界があいまいだったパワハラを定義。①優越的な関係を背景に②業務上必要かつ相当な範囲を超えた言動で③労働者の就業環境を害する、の三つを満たすものとした。指針で「大勢の前で威圧的にしかりつける」「業務と関係のない雑用を強制的にさせる」といった具体例も示した。

 企業は、予防のための研修や従業員の相談窓口の設置を義務づけられた(中小企業は22年4月から)。適切に対応してもらえなかった従業員は、各都道府県の労働局に通報できる。会社が対応を怠ったと判断されれば、是正指導や勧告、社名公表の対象になる。

 投資家もパワハラに厳しい視線を注ぐ。いまや株式市場は業績だけでなく環境(E)、社会(S)、企業統治(G)への姿勢も重んじる「ESG投資」が世界的な潮流だ。東京証券取引所は、6月中に改訂する企業統治指針に「従業員の健康・労働環境への配慮」を盛りこむ方針だ。対策に後ろ向きでは、株価にも響きかねない。

 ただし、防止策に「決定打」があるわけではなく、企業ごとに試行錯誤が続いているのが実情だ。

 三菱電機は、パワハラを受けた男性新入社員の自殺が報道で発覚した直後の20年1月、再発防止策として「職場風土改革プログラム」を発表した。だが、関係者によると、有識者の評価で「問題の背景や施策趣旨の伝達が不十分」などと課題を指摘されたという。

 その後も、役員を含む全従業員が研修を受け、ハラスメントをしない「宣言書」を出すといった追加策を打ち出している。杉山武史社長は今月3日の記者会見で「いろんな施策は打ってきたが、各職場でうまく運用にまで至っていなかった。(それを)経営陣がうまくくみ取ってこなかったという反省点がある」と語り、防止策を浸透させる難しさをにじませた。(内藤尚志)

メッセージを継続的に

 パワハラ問題に詳しい神奈川県立保健福祉大大学院の津野香奈美准教授(精神保健学)の話 パワハラ防止法誕生後、企業の取り組みは前進した。厚生労働省の昨年の調査では、調査対象企業の8割近くで相談窓口が設置された。一方で窓口の担当者の研修やマニュアルを整備しているのは4割程度。制度を作って満足するだけの企業も多い。

 トヨタの対策は、パワハラ事案を丁寧に調査することや、復職時に精神科医が介入することで被害者の早期復帰につなげようとする点は評価できる。しかし、未然に防ぐ取り組みは十分でなく、そもそもパワハラをなくす近道はない。必要なのは、経営者が「人を傷つける言動は許さない」というメッセージを継続的に発信し、社員の意識を変えていくことだ。

パワハラをめぐる主な動きと男性社員の自殺の経緯

2016年3月 男性社員がトヨタ自動車本社に配属。間もなく上司のパワハラが始まる

16年7月 男性社員が休職

16年10月 広告大手・電通の新入社員だった高橋まつりさんが、長時間労働パワハラを苦にして自殺し、労災認定されたことが明らかに

17年10月 男性社員が命を絶つ

19年5月 企業にパワハラ相談窓口の設置などを義務づける改正労働施策総合推進法(パワハラ防止法)が成立

19年6月 仕事でのセクハラパワハラを禁じる初の条約が国際労働機関(ILO)で採択

19年9月 豊田労基署が男性の労災を認定

19年12月 社員の自殺が相次いで発覚した三菱電機で、20代男性新入社員が8月に自ら命を絶っていたことが明らかに

19年12月 パワハラの6類型に沿って、厚生労働省が行為の具体例を盛り込んだ指針が決定

20年6月 パワハラ防止法が大企業に適用され、職場でのパワハラ防止策が義務化

(トヨタと男性社員の遺族側弁護士への取材から)