今回の「業界に痕跡を残して消えたメーカー」は、PCメーカーから外れるがSun Microsystemsを紹介したい。COMPAQなどと激しく市場を戦い、最終的に敗れていった企業だからだ。 Sun Microsystemsは1982年、スタンフォード大学に近いPalo Altoで立ち上がった。創業者はVinod Khosla、Andy Bechtolsheim、Scott McNealyの3人で、いずれも元はスタンフォード大の学生であった。 また会社設立直後に、カリフォルニア大学バークレー校のBill Joyが加わっており、この4人を創業者とみなすことが多い。 画像の出典は、“PC WorldのSun's History in Pictures” 当初はKhosla氏がCEOを勤め、まずSun-1 Workstationを世の中に送り出す。ちなみにJoy氏はBSD(Berkeley Software Distribution) Unixの開発で、すでにこの時点でUNIX業界では著名人であった。 画像の出典は、“Computer History Museum” もともとSun-1は、Bechtolsheim氏が考案したものである。当時スタンフォード大は、学内ネットワーク(Stanford University Network)を構築している最中で、この学内ネットワークに接続できるパーソナルCADワークステーションを必要としたことから始まった。Sun Microsystemsの“SUN”の社名も、このStanford University Networkから採られたものだ。 Sun-1の構成は10MHz駆動のMC68000プロセッサーに1MB(最大4MB)のメモリー、VGA(640×480ピクセル)相当のカラーモニターとHDDなどから構成される。また標準でイーサネット(ただし3Mbps)も搭載されているものだった。 画像の出典は、“Wikipedia” なぜかMC68000にも関わらず、I/Fはマルチバスというあたりが当時の状況を偲ばせるが、ボードそのものはDARPA(国防高等研究計画局)の資金で開発されたのだそうで、なにか他の用途向けだったのかもしれない。 ちなみにMC68000はMMU(Memory Management Unit:メモリー管理ユニット)を持っていない(MC68451という外付けMMUが用意される)が、Sun-1では独自のMMUが利用されたとしている。 搭載されるOSはUniSoftという会社のUniPlus V7という、V7 UNIXベースのものが採用され、これをSunOS 0.9としてリリースしている。 Sun-1は全部あわせても200台程度が販売されたに過ぎないが、これで弾みがついた同社は、翌1983年にはSun-2をリリースする。 こちらはプロセッサーにMC68010を搭載し、OSもBSD 4.1ベースのSunOS 1.0を搭載する。OSの移植はJoy氏が中心となって行なっており、以後はBSDをベースに順調にバージョンアップを重ねていく。 システムは、最初は引き続きマルチバスであったが、途中でVMEバスに切り替わり、メインストリーム向けのSun-2/120では1台約2万ドルの価格であるが、ローエンドのディスクレス構成のSun-2/50では1万ドル未満で販売された。メモリー容量も最大8MBまで増やすことが可能になり、Sun-1に比べると性能も多少向上した。 画像の出典は、“Wikipedia” そのSun-2の発表の2年後の1985年には、Sun-3が投入される。CPUは16.67~25MHzのMC68020で、さらにオプションでFPUのMC68881も利用できた。デスクトップ向けはついにVMEバススロットを廃し、1枚のボードで構成されるようになり、薄型の筐体(通称Pizzabox)に収められるようになった。 画像の出典は、“Wikipedia” MC68020を利用したことで、16.67MHzのもので5 DMIPS程度の性能になり、VAXベースのワークステーションやミニコンを凌ぐ性能も出るようになった。 また、SunOSも4.2BSDベースのSunOS 3.0になり、NFS(Network File System)やVFS(Virrual File System)のサポートなども加わって、大学の研究室レベルでの利用ではなく「日常の仕事に使える」レベルになった。 このあたりから、少しづつSun Microsystemsの社名が有名になってきた。それ以前は、「BSDのBill Joyが入った会社」に近い扱いだったと記憶している。ただ、同社が爆発的に飛躍を見せたのは、SPARCを搭載したSun-4と、これに続くSPARCstationである。 SunはSun-3の後継にMC68030を使うのではなく、自社でプロセッサーを設計することを決める。これは1984年にKhosla氏が退社、代わってCEOとなったMcNealy氏が「すべてを自社でまかなう」という方針を打ち立てたことと無縁ではないだろう。 ベースとなったのはやはりUCBで開発されていたRISC-I、あるいはBerkeley RISCとして知られていたプロセッサーである。これは1980年~1984年にARPA(途中で名前がDARPAに変わった)がスポンサードしたVLSI projectの1つである。 指揮を取ったのはUCBのDavid Patterson教授(ヘネパタ本の共著者の片割れ)であり、実際にチップも製造された。 性能は、4MHz駆動のRISC-Iが、5MHz駆動のVAX-11/780の倍近い性能を出したとする。RISC-Iを参考に、1985年からSunは自社でRISCプロセッサーの開発を始める。これが初代SPARCで1987年に完成。まずはSun-4として出荷される。 Sun-4はデスクサイドタイプで、Sun-2/Sun-3同様にVMEのバックプレーンを利用する構成だったが、1989年に投入されたSPARCstation 1ではVMEを廃し(代わりにSバスという新しいI/Fを搭載した)、ピザボックススタイルで提供された。 SPARCstation 1は富士通もしくはLSI Logicの製造したSPARCチップ(20MHz)を搭載、性能は(正確な数字が残っていないのだが)おおよそ10 DMIPS程度と想像される。 この頃のワークステーションのトレンドとして103(プロセッサー性能が10MIPS、メモリーが10MB、イーサネットがが10Mbpsということで、10の3乗と表現した)という言葉が一瞬流行ったことがあるが、これを最初に広く実現したのがSPARCstation 1である。 価格も最小構成では9000ドルあまりと当時としてはかなり安価であり、性能がそれなりに高く、GUIも提供され、TCP/IPをベースにしたネットワークが利用可能ということもあり、パーソナルユースはともかく業務用途ではPCとは比べ物にならないほど充実した環境が用意され、UNIXを広く利用する流れに明確に火がついた。 画像の出典は、“Google Books” ここからSunの快進撃が始まる。PizzaboxスタイルのマシンではSPARCstation 1+/2/10/5/20/4という順に製品が投入され、一方でLunchboxスタイルと呼ばれるSPARCstation IPC/IPX/classic/LX/ZXといったラインナップも提供され、この2つのシリーズが非常に広く利用された。 画像の出典は、“computers.popcorn.cx” ラインナップを簡単に増やせたのは、1989年にSunがSPARCの設計をオープン団体(SPARC International, Inc)に移管し、ここで命令セットを広く公開したため、多くの半導体メーカーがSPARCプロセッサーを争って製造したことがうまく作用した。 例えばPizzaboxスタイルの場合、以下の表のようにその時々で優れたCPUを採用する形で簡単に製品化が可能になった。 またこの世代は多くのOEMメーカーを確保しており、例えば国内では筆者が見たことがあるだけで富士通・東芝・新日鉄・CTC(伊藤忠テクノソリューションズ)のロゴが入ったSPARCstation互換機が存在した。このSPARCstation 20がリリースされた1994年あたりから、同社は絶頂期に入ったとしてもいいだろう。 単にデスクトップ側だけではない。サーバー向けにもSPARCserverシリーズがまず投入され、これが当時はまだそれなりに存在したメインフレームを急速に代替していく。 当時「クライアント・サーバーモデル」というトレンドがちょうど生まれたところで、このトレンドにうまくUNIXベースのアーキテクチャーが乗った形だ。 もちろんSPARCserverはそれなりに高価であった。例えば1991年11月のSunFLASH(Sunが定期的にリリースしていたニュースフラッシュ)によれば、低価格向けのSPARCserver 630MPが4万5000ドル(2CPU、64MB メモリー、1.3GB SCSI HDD)~7万5500ドル(4CPU、128MBメモリー、1.3GB SCSI HDD、19インチモニター付き)だった。 拡張性を高めた上位モデルのSPARCserver 670MPが6万ドル(2CPU、64MBメモリー、1.3GB SCSI HDD)~13万100ドル(4CPU、128MBメモリー、1.3GB IPIディスク、2.3GBテープドライブ)になっているが、メインフレームと比べると最大で一桁価格が下がったため、旧来のメインフレームの償却期限やリース期限にあわせてシステムを入れ替えるという引き合いはかなり多かった。 1992年には8CPUのSPARCserver 1000や最大20CPUのSPARCcenter 2000といったハイエンド製品を投入、さらにCRAYからCray SC6400を買収し、これは次のSun Enterprise 10000として生まれ変わる。 SC6400は連載279回で少しだけ触れたが、CRIがアプリケーションサーバーとして開発していた製品である。ベースはUltraSPARC IIを64プロセッサー、XDバスと呼ばれる専用バスで接続する構成であり、CRIはこれを1993年に発売するものの、その後SGIの買収にともないSC6400のみはSunに売却された。 こうしたハイエンドサーバーも次第に充実してきたうえに、1998年あたりからはストレージ製品の強化にも余念がなく、データセンターやエンタープライズ向けにがっちりとシェアを確保することに成功する。 Sun Microsystemsの1996年から2009年までの売上と営業利益をまとめたのが下の表だ。 1982年の創業からほんの16年あまりで売上げが100億ドルを超える巨大企業に成長したわけであるが、では同社はなんの市場を獲得したかといえば、それこそ1990年代初頭にDECが持っていたような市場がそのままSunに移った形だ。連載366回の数字と見比べると、なかなか趣深いものがある。 ただその一方で、足元では衰退が始まりつつあった。まずはデスクトップ向けの市場である。これは1990年代後半から次第にシェアが失われつつあった。 UNIX Workstationという市場に非常に多くの競合メーカーが一斉に参入し、当然ながら価格競争に陥るわけで、この頃にはすでに安いとは言えなくなっていたSunがシェアを落とすのは当然である。 さらにUNIXの市場そのものがPCに食われつつあった。これはWindows 95やWindows NTといったTCP/IPスタックを標準搭載するOSが普通に利用可能になり、Windows XPの登場で操作性も改善したことで、これまでデスクトップUNIXを利用していたアプリケーションの乗り換えが始まった。 その少し後にはLinuxが爆発的に普及を見せ、Windows以外にLinuxに乗り換えるという動きも加速化した。これを助長したのが、SPARCの停滞とx86の急速な伸びである。 先ほどは省いたが、SPARC Internationalは最初のSPARCのをSPARC V7、次いでハードウェア乗除算を加えたSPARC V8とし、1993年には64bit化したSPARC V9という3種類の命令セットを発表している。 ただこちらはあくまでも命令セットであって内部の構造などは規定していない。今で言えばARMのアーキテクチャーライセンスみたいなものだ。したがって各社が自身で実装することになるが、例えばSun自身が実装したSPARC V9準拠のUltraSPARC Iの場合、1995年に発表されている。 画像の出典は、“chipdb.org” UltraSPARC Iは4wayのIn-Orderスーパースカラーの構成で、TIのEPIC-3(0.47μm CMOS)を利用して166MHz駆動ながら、182MHz駆動のサンプルもいくつか取れており、このあとTIの0.42μmプロセスに移行して200MHzを狙うUltraSPARC I+が予定されていた。 さらにはTIのEPIC-4(0.29μm CMOS)を利用したUltraSPARC IIでは当初250MHz、最終的には300MHzが可能という話であった。実際にはそううまい話はなく、1997年にリリースされたUltraSPARC IIは250MHzどまりであった。 この後プロセスの微細化を重ね、最終的には0.18μm CMOS+銅配線で650MHz駆動が可能なUltraSPARC IIe+がリリースされたのは2002年のことだが、この頃にはx86はとっくに1GHzを超える速度で動作していた。 この後Sunは、マルチコア構成のUltraSPARC IIIや、後継となるUltraSPARC IVを投入し、マルチコアシステムが有効なサーバー製品ではその威力を発揮したものの、ことデスクトップ向けでは完全にx86に挽回不可能なまでの性能面での遅れをとることになる。 もちろんSunもx86を無視していたわけではなく、Solaris 2.1(SunOS 5.1相当:Sun OS 5.0がSolaris 2.0に改称された)からはx86版もリリースしており、実際Sun自身もSolarisが動作するx86マシンを販売したりしている。 あるいはSun-4と同時期に、80386を搭載するSun386iというワークステーションを販売もしたりしている。さらに2000年にはx86ベースのサーバーを販売していたCobalt Networkを買収して、自社のラインナップに加えたりした。 余談ながら、Cobalt Cubeにはいくつかバージョンがあり、前述のニュースではMIPS系プロセッサー(実際にはRMIのRM5231)が採用されるとある。それとは別にAMDのK6-2を搭載したモデルもあり、両社が併売されていた。 これらの中でSolarisは一定のニーズをつかんでおり、現在もまだユーザーがいるほどだが、かといってそれでx86+Windowsやx86+Linuxの勢力を押しとどめるには十分ではなかった。 それでも2000年頃まではサーバー製品の伸びのおかげで成長が続いたが、2001年のドットコムバブル崩壊でサーバー/ストレージ製品の売上げが急落、同社の経営を直撃した結果が2002年以降の状況である。 この後もMcNealy氏は困難な状況をなんとか打開しようと努力を重ねる。2004年にはUltraSPARC Vとなる予定だったMilleniumというコード名のチップの開発をキャンセル、代わりにマルチコア/マルチスレッドプロセッサーであるNiagaraことUltraSPARC T1を導入。 2005年にはGrid Computingの先鞭をつけることになったSun Gridを発表するなど、常に攻めの姿勢を崩さなかったが、その一方で2006年まで毎年赤字が続く状態であった。このため2001年末より数度にわたるレイオフも行なわれ、会社としての活力も次第に失われつつあった。 McNealy氏も2006年にCEOを降板(会長としては残った)、後任にはSunが1996年に買収したLightHouseDesing, Ltdというソフトウェア会社のCEOを勤め、買収後にはSunのCOOを勤めていたJonathan Ian Schwartzが就いたが、彼をもってしてもSunの復活は容易ではなかった。 2007年にはファンドから7億ドルの投資を受け入れるなどして持ちこたえたものの、2009年にはまた大きな赤字を出すに至り、2009年9月2日にOracleに会社を売却することを発表する。買収完了は2010年で、買収金額は74億ドルであった。 編集●北村/ASCII.jp
BSD UNIXを採用したSunOS搭載マシンで
着実に知名度を上げていくRISCプロセッサー「SPARC」を開発
全盛期を迎えるx86に遅れを取り衰退
Oracleに会社を売却
2016年8月8日月曜日
業界に痕跡を残して消えたメーカー UNIXの覇者Sun Microsystems 大原雄介 (http://www.yusuke-ohara.com/)
12:13
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