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洋菓子ブランド「アンリ・シャルパンティエ」などを展開する株式会社シュゼット・ホールディングス。同社では創業社長が一大ブランドを築き上げ一線を退いてしばらく、赤字に転落してしまいます。そんな状況下で家業を継いだ蟻田剛毅社長に課せられた使命は、赤字脱却と組織改革でした。蟻田さんは猪突猛進で改革を進めるも社内は混乱。その状況を好転させたのはベテラン社員たちでした。改革は奏功し、1年で黒字化。その後、再成長が始まります。その過程で蟻田さんが思い知ったのが、会社が連綿と紡いできたもの「コンテクスト(文脈)」の重要性でした。困難の克服を経て「最も大事なものに気づけた」と語る蟻田社長にその経緯を伺いました。
株式会社シュゼット・ホールディングス
代表取締役社長 蟻田 剛毅さん(ありた ごうき)
1974年兵庫県生まれ。大学卒業後、株式会社電通に入社。在籍中に早稲田大学大学院を修了。2007年、父の蟻田尚邦氏が創業した株式会社アンリ・シャルパンティエ(当時)に入社。株式会社シュゼット副社長を経て、2011年代表取締役に就任。就任翌年度に赤字から一転、V字回復を果たす。
無口だったボンクラ息子が突如発した怒号
――父親が創業してブランドを築き上げたアンリ・シャルパンティエ(シュゼット社)に入社し、4代目の社長に就任されます。その経緯を教えてください。
蟻田剛毅さん(以下、蟻田): 私は幼少期から家業を継ぐ気はさらさらなく、大学を卒業後、広告会社に勤めていました。そこで担当したお菓子をPRする仕事が楽しかったこともあり、お菓子作りの現場に惹かれ、父親に懇願する形で洋菓子を手掛ける家業に入りました。
当時、父はすでに一線を退き、社長は外部から招いた方が務めていました。
いわゆる家業に入ったわけですが、私がやりたかったのは現場の仕事。経営には興味がなく、お菓子の企画・製造やマーケティングに携わっていました。今とは立場がまったく違いますし、それこそ(自分の目の前の仕事が楽しければ…)ということが最優先でした。
しかしその出自から、いずれは経営陣に…という話はあり、入社からしばらく経ったころに副社長という立場を与えられ、経営会議に出席するようになりました。
ただ、出席はしているものの、そこにいるだけです。経営の「け」の字もわからない「ボンクラ息子」でしたし、「経営会議では発言しない」という暗黙の約束のようなものがあり、ずっと発言は控えていました。私としても、それが自分の立場・役割だと思っていましたので。
ところがとある経営会議で、そんな私でも声を荒げてしまった、どうしても我慢ならない場面に遭遇しました。
思わず 「こんな会議、社員に見せられませんよ!」と、我を忘れて怒鳴り声を上げてしまったのです。
それまでずっと沈黙していたボンクラ息子の突然の怒号です。自分でもびっくりしましたが、周囲はそれ以上の驚きでした。
しかし振り返るとこの一件が「当社の存在意義を取り戻す」1つのきっかけになったのかもしれません。
――経営会議で思わず怒号を上げてしまった出来事とは?
蟻田: そこでは製造、マーケティング、販売の責任者3者がそれぞれ、まったく異なる商品の企画・販売を提案しました。
この3部門は、本来緊密に連携すべきものなのですが、それぞれの提案内容は自部門の都合のみを優先したものになっていました。部署間の意思疎通もなければ、連携も取れていない。どの提案も、私の主戦場である現場でスムーズに進行できるものとは思えませんでした。
私は「ん?」と疑念を持ちながら聞いていましたが、それぞれの部門の思いはあるでしょうし、提案がなされること自体には何の問題も感じていませんでした。そもそも、それを議論する場なのですから。
しかし耳を疑ったのが、その提案に対する決議内容です。
バラバラの3案が全会一致ですべて承認。
その次の瞬間、私は反射的に声を上げていました。
私としては明らかに現場が混乱する決定でしたし、それ以上に理解できなかったのは、経営会議という場でありながら誰も、何の議論もしない。
当時、業績が芳しくなかったこともあり、現場の人間としては、その光景は決して納得いくものではありませんでした。
経営会議が機能しなかった2つの理由
――経営会議はなぜそんな状況になっていたのでしょうか?
蟻田: 今振り返ると…という結果論にはなるのですが、理由は大きく2つあったように思います。
1つは「事なかれ主義」。 当社は、創業者である父のカリスマを原動力に成長してきた面があります。その結果、私も含めて経営陣や管理職にまで「指示を待つ」という姿勢が染み付いている側面がありました。
多少おかしなことがあっても、それに反論したり修正したりする意識は希薄だったと言いますか。
もう1つは「会社の歴史や文化を知る人間の不在」です。 当時の社長は外部から来た方でしたし、経営に携わるメンバーや、会計士や税理士なども、当時の社長の身内で固められていました。
商品開発・販売戦略を含めた会社の舵取りは、いつしか外部の経営メンバーの都合に左右されるようになり、 「何を大切にしてきた会社なのか?どんな組織・商品作りを目指してきたのか?」といったものがなくなっていました。
それが、各部署から上がったバラバラな提案をすべて承認する、ということにつながったように思います。
「アンリ・シャルパンティエのお菓子を作る」会社ではなく、単に「お菓子を作って売る」会社になっていたのです。
もちろんこれらは今だからこそ言えることであって、当時の私はそこまで考えが及んでいたわけではありません。
年間約3300万個を売り上げる看板商品「フィナンシェ」
――業績が芳しくなかった、と仰いましたが。
蟻田: 外部出身の社長の就任後4~5年くらいまでは売上は順調でしたが、最後の2年で売上急減、そして最終年はとうとう赤字になっていました。そして私が入社した翌年がリーマンショック。180億円ほどあった売上はじりじりと減少して160億円ほどに。先述の経営会議はそのころの出来事でした。
当時は拡大路線をひき、人や設備に大きな投資をしていたため、リーマンショックの打撃は競合他社よりも大きく、また長引きました。さらには、そうした現実から目をそらす体質だったこともあり、業績向上のための対策も遅れていました。
象徴的だったのが販路に関して。いわゆるデパ地下ブームに乗り、当社は百貨店に頼った展開をしていたのですが、マーケティングが変わっていました。総合的な品揃えから専門店や個人店の単品特価業態の台頭。また、ECや駅ナカなど販路が多様化していく中で、売上は低下していました。
そんな状況下であるにもかかわらず、当社が議論していたのは「デパートの売上をいかに回復させるか?」ということ。世の中の変化に気づかない、気づいていてもそれを直視できない、内向きな思考が蔓延していました。
新商品開発に目をやれば「流行りのお菓子を作って売る」が主流。一方で市場調査のために売れているお菓子を食べては「これが売れるのは、おかしい」と、自己正当化。
「貧すれば鈍する」とはまさにこのことで、 それまで会社が長年積み上げてきたものなどそこにはなく、何をしたいのか、何を目指しているのかさえ、わからなくなっていました。
社長就任後の経営改革で社内が混乱。救ってくれたベテラン社員
――そうした状況を脱するために、どこから手を付けられたのでしょうか?
蟻田: いろいろな経緯はあったのですが、あらためて父が経営メンバーとして復帰して、父の指名もあって私と幹部数人で組織改革に着手していくことになりました。失ったものを取り戻す、とでも言いましょうか。
しかしそれから1年後の2011年、父が急逝。私は4代目社長に着任しました。そしてその後、私が導入した大方針を巡って、また別の混乱が始まります。
――混乱というのは?
蟻田: 私に課せられた最重要課題は赤字体質からの脱却でした。そのために、まずはそれ以前の「どんぶり勘定」から「数値管理」へという大方針を掲げました。
これには、旧経営メンバーや管理職だけでなく、社員の一部からも反発や、政治的な動きがありました。想像の域を出ませんが、数字をはっきりさせると不都合なこともあったのでしょう。会社を辞める人も出てきました。
数値管理を進めると、当然社風も変わります。それ以前は、父のカリスマ性と「いきいきと働く」といったアバウトな方針で回っていた会社ですので、現場の社員としてはピンと来なかったと思いますし、漠然としたアレルギー反応もありました。
――それらの拒否反応にどう対応されたのでしょうか?
蟻田: 私自身は 「自分の判断に間違いはない」と猪突猛進していました。しかし事態は一向に改善しません…。 私の改革が、組織に新たな混乱をもたらしていました。
ただそんな時に、私の決断を後押ししてくれて、少しずつ組織を融和に導いてくれた存在がありました。
父の代、それこそ創業間もないころから働いてくれているベテラン社員たちです。彼らは父への恩義を強く感じていて、当時の会社が揺れ動く状況をなんとかしたい、会社を残したいと考えてくれていました。
私は社長に就任したものの、何の実績もあげていません。社員の信頼を十分に得ているわけではありませんでした。私が掲げる数値管理の導入は、赤字体質を脱するために必要と頭ではわかっていながらも、社員にとってはそれまでの慣習をある意味否定される、変化を強制されるものです。
そうした変化を受け入れて、周囲に働きかけてくれたベテラン社員の存在は、本当にありがたかったです。 ほとんど孤立していた私にとって大きな励みになりましたし、「もしここで自分が引き返せば、彼らを裏切ることになる。自分の決断を貫こう」と腹を決めました。
こうして数値管理、特に支出面の適正化を進めた結果、なんとか1年で黒字に転じることができました。
ベテラン社員こそが会社のコンテクスト(歴史・文脈)を紡いでくれていた
――その後、売上は約280億円まで(2023年9月期)伸びていきますが、この成長の原動力は何だったのでしょうか?
蟻田: 赤字体質を脱却した後、売上はそれなりに好転してここまできました。ただ、色々とトライしてきましたが、現場に経験豊富なメンバーが残ってくれていたのが大きかったと思います。
今思うと短期的な成長のために、目先の商品開発や販路開拓に力を注いでいました。 「WEBマーケティングを強化したいから、それに強い人材を迎えよう」と考えては、すぐに外部から幹部を採用したり。上級役職者の人の出入りは、以前と変わらず多かったですね。
そんな折、コンサルタントから『上層部がこんなに入れ替わる会社で、何ができるんだ?』と叱責されたことが転機になりました。
私としては(業績は少しずつ良くなっているし、経営として悪くはないんじゃないか?)とうっすら思っていたのですが、実際には場当たり的な自転車操業でしたし、心の奥底にあった(本当にこれでいいのか…?)という部分をえぐられた思いでした。
コンサルタントの指摘はつまるところ「会社として目指すもの、軸になるものがない」というもの。
そこからあらためて、当社が創業時から大事にしてきたものを私なりに見つめ直し、「お客さまと対面で手作り」「人生のなかで喫茶店のようなひと時を作る」というコンテクスト(歴史・文脈)と、その重要性に気づくことができました。
そして、これからの組織・人事の方向性が定まります。
――「コンテクストの重要性」とはどういうことでしょうか?
蟻田: 当社の原点は、1969年に父が芦屋で開いた小さな喫茶店「アンリ・シャルパンティエ」です。手作りの菓子やケーキを、それを心待ちにしてくれる目の前のお客さまに提供する。そんな喫茶店でのひと時の積み重ねが、当社の礎となってきました。
しかし赤字だった時期、当社はその原点を見失っていました。商品開発や店舗展開、人事や組織作り…どれも小手先のやり方に終始し、それこそ会社としてどこに行こうとしているのかが定まっていませんでした。
そんな中で私は社長に就任しましたが、会社の混乱を救ってくれたのは、先述のベテラン社員たちです。彼らは会社の成長を記憶として心身に刻み込んでいます。彼らの脳裏にあったのは、会社が成長していたころの、それこそ創業時から当社が紡いできたコンテクスト(歴史・文脈)。どこかでそれを取り戻そうとしてくれたのだと、思い至りました。
父は私に「理念を大事にしろ」と口酸っぱく言っていました。その言葉の意味を、やっと理解できました。本当に大切なものは、目の前にあったのです。
その場しのぎの外部登用、兼務の廃止。コンテクストを紡ぐ人が長く働ける組織へ
――コンテクストの重要性に気づき、組織・人事の方向性が定まったと仰いました。
蟻田: そうですね。「その場しのぎのスキル過剰重視の外部登用」は真っ先にやめました。もっと長い時間軸で、当社のコンテクストを一緒に紡いでいくような人事を指向することにしました。
これは言い換えれば 「コンテクストを知り、大事にする従業員が、より責任ある仕事に携わり、長く働ける環境を作ること」 でもあります。
そういった環境を作るために行った施策として特徴的なのは「役職者の兼務の廃止」でしょうか。かつての当社では、兼務は当たり前でした。優秀な人材はもちろん、一部の役職者や社員に業務や権限が集中していました。
この状況は当社において、社員が「自身の立場を奪われる」という不安を抱くことにつながっていましたし、それ故のいざこざも起こっていました。
当社が求めるのは「その仕事を、責任をもって、長く続けてほしい」「その仕事で、当社のコンテクストを紡ぐのに欠かせない人になってほしい」ということ です。そうなれば、その社員が当社で働き続ける意味もできますし、当社がその社員にとって「より良い居場所」になれます。
実際、社員それぞれのポジションが確立するにつれて、心理的な垣根のようなものも薄れ、相互のコミュニケーションも活発になりました。以前は蔓延していた「ことなかれ主義」「指示待ちの姿勢」もなくなり、自主性が高まりました。退職者も、目に見えて減少しましたね。
会社の歴史や文化、背景を知る人材の輩出は、一朝一夕では不可能です。その会社で長く働いてくれる存在がいてこそ、コンテクストの継承が可能になります。
逆に言えば、当社は知らず知らずのうちに、それを失おうとしていたわけです。ギリギリのところで間に合ったのかもしれませんね。
「お客さまと対面で手作り」は普段の仕事の中に息づいている
――「お客さまと対面で手作り」という原点について、会社が大きくなった現在ではそのまま伝えるのは難しそうです。
蟻田: そうですね。喫茶店時代のようなお客さまとの直接的な関係が今、同じようにできるわけではありません。しかし、その根底に流れる思いを紡ぐ取り組みは進めています。わかりやすいところで言えば、お菓子教室や地域の催しへの参加などです。
しかしそうした特別な取り組みだけでなく、長い年月を経て当社に根付いた「普段の仕事そのもの」が、当社のコンテクストを紡いでいるということに気づかされる出来事がありました。
それは当社の製造工場で働いていただいているパートさんとの雑談で、『自宅で子どものためにケーキを焼いてあげている』という話を耳にした時のことです。
そこにはきっと手作りのケーキを囲んでの家族団欒があったことでしょうし、友人に手作りのケーキを振舞うこともあったかもしれません。そしてそのパートさんだけでなく、他の従業員も、同じように誰かのためにケーキを作っていることでしょう。
当社の製造部門ではある程度働くと、自分ひとりでホールケーキを作れるようになります。これは長年手作りにこだわってきた、当社ならではの副産物の1つだと思います。自動化・作業分担が進んだ大規模なケーキ工場では、このようなことは決して起こらないでしょう。
これは見方を変えれば、当社の工場で働く人々を起点に「手作りケーキがあるコミュニティ」が日々生まれているということにもなります。
当社は当然ケーキを作っているわけですが、同時に「ケーキを作れる人」も作っている。
これはささやかではありますが、その人の家庭や周囲を少しだけ豊かな空間にするものでしょう。会社として手作りのケーキを作り続けることが、家庭や地域、社会を豊かにしている。 会社のコンテクストを見出せる風景は、足元にあったのです。
そしてそうした地域・社会との関わりも、当社の存在意義の1つとして、お菓子を通じた人作り・地域貢献への取り組みを進めていきました。
手作りのお菓子で幸せになれるひと時を、世界中に
――お菓子を通じた人作り・地域活性化の取り組みというのは?
蟻田: 例えば、東日本大震災後の地域支援に代表されるCSV(企業の共有価値の創造)です。以前はCSR(企業の社会貢献)が中心だったのですが、一時的なチャリティでは受け身的で継続性に課題があると考え、社会的・経済的に持続できる関係を築く方向に舵を切りました。
この判断の背景には、当社の本社がある兵庫県が大きな被害を受けた阪神・淡路大震災の記憶も影響しています。当時、ボランティアをはじめ多くの方々に助けていただきましたが、その反面、彼らがいなくなってしまうと「私たちは取り残されてしまうのではないか」という漠然とした恐怖感がありました。
CSVの代表的なものは、東北の製菓調理専門学校でパティシエを目指す学生への返済不要の奨学金制度です。これは彼らの支援になることはもちろん、奨学金を受け取った学生の中から毎年数名が当社に就職してくれていることから、当社にもメリットが生まれ継続性が高まります。
もちろん、当社に就職いただかなくても「誰かのために手作りのお菓子を作れる人」を増やすことには必ずつながります。きっと誰かのために手作りのケーキを作り、その誰かの幸せなひと時を作ってくれていることでしょう。そういった風景を増やすことは、当社が何より目指すところです。
CSVとして始めた被災地支援活動「アンリ・シャルパンティエ奨学金」。東北でパティシエを目指す学生への返済不要の奨学金制度
――今後について教えてください。
蟻田: 社長就任から13年が経ち、国内145店舗、海外6店舗を展開するに至りました。これから目指すのは「世界へ発信するユニバーサルブランド」です。すでにシンガポールに進出し、さらに拡大する予定です。
会社の規模が大きくなっても、当社の理念やそこに至るコンテクストは決して忘れてはいけません。むしろ、より強化していく必要があります。
2023年には新たなビジョンとして「世界のスイーツグランドメゾン(大きな家)になる。」を掲げ、使命を「菓子と生きかたをつくる。」としました。
手作りのお菓子で幸せになれるひと時。芦屋の小さな喫茶店「アンリ・シャルパンティエ」で見られた風景、またそこに集う人々の笑顔や関係性を、世界中に広げていきたいですね。
(文:加藤 陽之 編集:松本 岳治)
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