格差の広がりから、現金給付の是非や手法をめぐる議論が続く中、最低所得を保障する公的扶助のあり方を見直すべきか考える社会実験が、オランダで実施された。オンラインで現地に取材を重ねると、お金だけではない問題や、「寛容の国」の変化も見えてきた。(藤えりか)
とう・えりか 1970年生まれ。経済部記者。オランダは何度か出張で訪問。ツイッターは@erika_asahi ポッドキャストでも聞いていただけます。
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中心部に、中世からの教会や、400年以上の歴史を持つフローニンゲン大学がそびえ、縦横に走る運河沿いには、イタリアの巨匠メンディーニ設計の現代的な美術館。オランダ北東部フローニンゲンは、そんな新旧の風景が広がる歴史都市だ。だが主要産業には乏しく、失業率は全国平均より高い水準が続く。
拡大するオランダ北東部フローニンゲンの中心部の運河にあるフローニンゲン美術館 (C)Frans Lemmens / Hollandse Hoogte
ここで一人で暮らすハブリエレ・ベルマースさん(50)は、リーマン・ショック後の2009年、大学での事務や受付の有期雇用の仕事を失った。
日本の高校に当たる中等教育学校を卒業し、様々な仕事に就いた後、04年にこの街に移り住んだ。失業手当として以前の賃金の約7割相当を受けたが、約2年で給付期間が終わり、「最後の安全網」の公的扶助を受給することになった。職業大学で運動心理療法を学び始めたが、心の健康を崩し、履修も一時中断。最終的に卒業したが、今も所得や資産のない人への最低保障として生活扶助は月1千ユーロ(約13万円)超、住宅扶助は家賃の約半分に当たる月326ユーロを得ている。
ビデオ会議システムで取材に応じたベルマースさんは、「公的扶助に頼ることになるとは思わなかっただけに、自分は失敗したと感じ、つらく恥ずかしく、絶望感も覚えた。殻に閉じこもり、誰とも連絡を取らなかった」と、公的扶助を受け始めた当時を振り返る。職探しや収入の有無報告などの義務も課され、「仕事を見つけなきゃというプレッシャーに、燃え尽きていた」。
拡大するオランダ北東部フローニンゲンで公的扶助の社会実験に参加したハブリエレ・ベルマースさん。地元で困窮者向けのボランティアをし、コーチとなるための修了証も得た=10月、Ingrid Blink氏撮影
それが今は「自信や自尊心を持…
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