2016年5月2日月曜日

産学連携から生まれた新しい分子標的薬トラメチニブ



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谷田 清一 Profile
(たにだ・せいいち)
公益財団法人京都高度技術研究所
産学連携事業部 医工薬産学公連携支援グループ プロジェクトディレクター
グラクソ・スミスクラインは、特定の遺伝子変異によるメラノーマ(悪性黒色腫)の分子標的薬を開発し、昨年、米国FDAの承認を取得した。この元になったリード物質は京都府立医科大学の研究者と日本たばこ産業(JT)の共同研究から創出されたもの。苦戦を強いられている日本の標的薬の開発に一石を投じる事例だ。
昨年上市されたがん治療薬の中で、筆者が特に注目しているのは、抗体薬物複合体トラスツズマブ・エムタンシン(trastuzumab emtansine;米国食品医薬品局〔FDA〕承認、2013年2月22日/厚生労働省承認、同年9月20日)と低分子薬トラメチニブ(trametinib;米国FDA承認、2013年5月29日)**1の2品目である。前者には、薬物の製造に日本発の技術が使われており、後者には、国内の産学連携が大きく寄与しているからだ。本稿では、画期的な分子標的薬との呼び声の高い後者を取り上げて、解説してみたい。 
分子標的薬とは
分子標的薬、分子標的抗がん剤などの言葉を耳にした読者は少なくないだろう。従来の治療薬とどこがどう違うのだろうか。簡単に言ってしまえば、疾患の発症や進展の原因となる遺伝子を捉え、その遺伝子産物を狙い撃ちして治療効果を発揮するように設計された治療薬を指すと言えるだろう。 
分子標的薬は、がんの治療を目的に開発されたものが多く、それらは、がんを特徴付ける分子やがんの増殖を先導する分子を狙い撃ちして抗がん作用を発揮する。このため副作用を極力抑えて治療効果を高めることができる。それに比べて従来型の抗がん剤は、増殖している細胞を攻撃して抗がん作用を発揮するのが通例だ。正常な細胞の多くは、増殖を止めて仕事をしているため、その攻撃から辛うじて逃れている。だから正常細胞でも、造血系細胞や腸管上皮細胞など、日々、活発に増殖している細胞は攻撃をかわせず、それが強い副作用となって現れる。つまり、正常細胞とがん細胞を見分ける力が弱いのだ。 
分子標的薬の呼称が使われ始めたのは、抗体医薬の可能性に関心が集まり始めたころで、今から30年も前にさかのぼる。だが、それが一般化するのは、イマチニブ(imatinib)*1やゲフィチニブ(gefitinib)*2などが臨床試験の舞台に登場する1990年代半ばだったと記憶する。2001年に承認されたイマチニブは、特定の慢性骨髄性白血病に対して目覚ましい治療効果を発揮し、分子標的薬の評価を不動のものにした。原因遺伝子BCR-ABLの発見から数えて40年後のことだった。ちなみに近ごろでは、ゲノム科学の進歩によってドライバー変異*3と呼ばれる遺伝子変異が次々に明らかにされ、原因遺伝子の発見から治療薬の上市までが大幅に短縮されつつある。クリゾチニブ(crizotinib)などは、原因遺伝子ALK-EML4の発見から治療薬の承認までに4年を費やしたに過ぎない**2。 
がん細胞が増え続けるということ
がん細胞は、分裂寿命を喪失していて自律的に増殖し続ける。腫瘍に成長すると、自ら酸素と栄養素の補給路、つまり新しい血管を確保する。そしてしばしば固有の場を棄てて浸潤し、転移する。自律的増殖の鍵を握る遺伝子の多くは、がん原遺伝子(proto-oncogene)とも呼ばれ、本稿に登場するBRAF*4RASなどがこれに当たる。これらが突然変異を起こし、産生されるタンパク質が恒常的に活性化すると、増殖シグナルを発信し続けることになる。 
図1 がん細胞の増殖を促すシグナル経路とトラメチニブの作用点
RAS→RAF→MEK→ERKシグナル伝達経路(赤矢印)は、多くのがん細胞で高頻度、かつ恒常的に活性化される。BRAF遺伝子やRAS遺伝子の活性化変異を持つメラノーマは、このシグナル経路への依存度が高い。
一般に、細胞は外界の増殖因子などを固有の受容体で受け止め、それが真っ先に活性化する。続いて、増殖を促す幾つものシグナル分子がリレーのバトンを手渡すように次々と活性化し、細胞質から核に向かってシグナルが伝わる(図1)。その過程では、増殖を抑えているブレーキも解除される。こうして増殖の車輪が回り、1回転するたびに細胞は2個に増える。車輪を駆動させるのは、CDKと呼ばれるタンパク質リン酸化酵素である*5。これがサイクリン(cyclin)と結合してエンジンの役割を果たす。 
ブレーキの仕組みはこうだ。増殖シグナルを抑える役割を担う遺伝子からCDKの阻害因子(以下「CKI」)*6が産生されると、これがCDKに作用してリン酸化機能を奪う。その結果、図2Aに示すようにRBタンパク質*7がリン酸化を免れて活性型となり、転写因子E2F*7を抱え込んで動きを封じる。そのため、DNAの複製にブレーキが掛かり、細胞は増殖を停止する。正常細胞の多くは、ブレーキが掛かったままに保たれるが、がん細胞は、ブレーキが故障していて、増殖シグナルが暴走する(図2B)。 
図2 RBタンパク質の活性化による増殖停止のメカニズム
(A)RBタンパク質が脱リン酸化されて活性型になると、転写因子E2Fを抱え込んで動きを封じ、DNA複製初期遺伝子群の発現を妨げる。その結果、細胞の増殖にブレーキが掛かる。
(B)RBタンパク質がリン酸化されて不活性型になると、E2Fが解き放たれる。E2Fが相棒分子と結合して、DNA複製初期遺伝子群の発現を促す結果、ブレーキは解除され、細胞は増殖に向かう。
矢印①:サイクリンと結合したCDK*5がRBタンパク質をリン酸化する。
矢印②:CDK阻害因子CKI*6がCDKのリン酸化機能を奪う。
ⓟはリン酸を示す。
生命は、「正」と「負」の精妙なバランスの上に成り立っている。だから、それが崩れると「病」に陥る。がんもここに見る通りである。社会システムともどこか似通っていると思うが、いかがだろうか。 
トラメチニブに至る道
トラメチニブの背景をさかのぼると、京都府立医科大学の酒井敏行教授と日本たばこ産業株式会社(以下「JT社」)の産学連携研究にたどり着く。昨年11月7日に、筆者らが主催した公開シンポジウムに酒井教授を招いて開発の経緯を語っていただいた*1。本稿の記述の多くは、その講演に基づいている。 
上記の講演で酒井は、高等学校時代に撮ったという酒井兄弟の写真を見せ、骨肉腫で実弟の命が奪われたことが、がん研究を志す動機になったと語った。左足を切断し、兄に寄りかかるように松葉杖に縋って立つ弟君の蒼白い顔に浮かぶ曇りのない微笑みに、酒井青年の押し隠した動揺と固い決意を垣間見たのは、筆者だけだっただろうか。 
志を果たすべく京都府立医科大学に入学した酒井は、1986年に渡米して、RB遺伝子のクローニングで名高い米国ハーバード医科大学のT. P. Dryjaの下で研鑽(けんさん)を積み、帰国後もRB一筋に研究生活を送る。そしてついには、RBタンパク質の再活性化を誘導する化合物の探索を発想するに至る。 
例えばメラノーマ*8だが、その代表的な遺伝子異常にがん抑制遺伝子p16の突然変異がある。この変異によってp16タンパク質(CKIの一種)*6の活性が失われるが、もしも同じ仲間のタンパク質、例えばp15などをうまく誘導できれば、失われた機能を代償してRBタンパク質をよみがえらせ、メラノーマを抑え込むことができるはずだ。この視点に立って、RASからRBタンパク質の不活性化に至るシグナル(図1)を細胞系で捉え、その経路に作用する化合物を一網打尽にするのが、酒井の狙いだ。 
これまでにも数々の分子標的薬が見いだされてきたが、多くは、原因となる遺伝子を特定し、その遺伝子産物を用いて無細胞系で活性を追う手法によるものだった。この手法は、標的分子の機能部位に直接結合する化合物の高速スクリーニングに適するが、その半面、機能部位から離れたところに結合する化合物を見落とすことが少なくない。近ごろでは、この手法で得られる化合物の多様性に限界が見えてきたと嘆く声さえ聞こえてくる。一方、酒井らの細胞系は、高速スクリーニングに向いているとは言えないが、標的分子の機能部位だけでなく、分子内の異なる位置や、シグナル経路に影響を及ぼす分子を捕まえることができる。その上、シグナル経路に未知の分子が介在していても、それに網を張ることさえできるのだ。 
酒井は講演で、国内の複数の医薬品メーカーに活性化合物の探索を持ちかけたが、どこも乗ってこなかったと語った。国内大手の保守性の表れと言えなくもないが、探索を引き受けたJT社ですら、一度は断ったのだという。「しつこさが身上」と豪語する通り、さまざまなハードルを乗り越えて成功を呼び込んだ酒井の粘り強さには、頭が下がる。 
導出、そして成功
酒井によれば、スクリーニングの初期にヒットした化合物がゲフィチニブ*2に似ていたため、ゲフィチニブ自体に探りを入れたところ、これが図1の経路を弱いながらも抑えてp15の発現を誘導することを見いだし、考案した細胞系の妥当性に確信を持ったのだという。パートナーのJT社は、ヒット化合物の構造をヒントに合成研究を独自に展開し、トラメチニブにたどり着く。そして同社は、これがMEKに強く結合してその機能を阻害し、加えてBRAFによるMEKのリン酸化をも妨げることを突き止めたのだった(図1)。つまりMEKが抑えられて下流のシグナルが遮断されると、CKIの産生が促され、不活性型RBからリン酸が除かれて活性がよみがえる。よみがえったRBタンパク質は、E2Fの動きを封じ、DNAの複製を抑えて、がんの増殖にブレーキをかけるというわけだ(図2)。 
JT社研究陣の確かな力に支えられて生まれたトラメチニブだったが、同社はトラメチニブの自社開発を断念し、2006年4月に独占的開発・商業化権をグラクソ・スミスクライン社(以下「GSK社」)へ導出し、その後の開発を委ねる。これを受けてGSK社は、BRAF遺伝子変異のある進行性メラノーマ患者を対象とした治験を実施する。この治験はBRAF遺伝子変異のあるがん細胞がMEK阻害剤に高い感受性を示すという知見に裏打ちされている。フェーズⅢ試験では、無増悪生存期間がトラメチニブ投与群で4.8カ月を示し、従来型の化学療法群の1.5カ月を大きく上回った。こうして、JT社の導出から6年を経た2012年8月にGSK社は、「BRAF V600遺伝子変異陽性の切除不能あるいは転移性メラノーマ」を適応症として米国FDAに新薬承認を申請し、2013年5月に承認を取得する。この時、FDAは、BRAF遺伝子変異(V600EまたはV600K変異)*4を検出するためのコンパニオン診断薬(bioMérieux社)も平行承認している。 
現在、GSK社は、トラメチニブとBRAF阻害剤との併用による治験*2を進めていて、フェーズⅡ試験ながら、奏効率が70%を超えているというから驚きだ。メラノーマが薬の効かないがんから薬で治るがんへと変貌しつつあることをうかがわせる。さらに、がんの治療対象を拡げる試みとして、RASから分岐する2本のシグナル経路(図1)の両方を遮断することも検討されているそうだ。 
結びにかえて
2012年に米国で承認された新薬42品目の内訳をみると、がん治療薬が11品目で、2位の内分泌・代謝疾患治療薬5品目を大きく上回っている**3。ヒト・ゲノムの “druggable” 遺伝子*9の20%余りがタンパク質リン酸化酵素をコードしていることが、その背景にあるようだ。これまでに500種を超えるタンパク質リン酸化酵素が同定され、分子標的薬のリード創出研究の3割近くが、それらを標的としているからだ。 
この成長著しい分子標的薬の分野で、実は、国内の医薬品メーカーが惨敗に近い状況にあることを見逃してはならない。そんな中に登場したトラメチニブは、日本の産と学が連携してリードの創出に成功し、新しい分子標的薬として認可されるに至った例外的な事例と言える。海外大手に開発を委ねたあたりは、日本の分子標的薬の「今」を象徴していると言えなくもないが、苦戦を強いられているこの分野に一石を投じる事例であることに変わりはない。メラノーマが薬で治る時代の到来を告げる新薬が、ローカルな産と学の結び付きから生まれたことは、現在、国の支援で動いている創薬プラットフォーム事業などにもヒントを与えるに違いないと、筆者は考えている。
●用語注釈
*1
イマチニブ(imatinib):BCR-ABL融合遺伝子が産生するBCR-ABL融合タンパク質のタンパク質リン酸化活性を選択的に阻害する分子標的薬。ノバルティスファーマ社が開発。
*2
ゲフィチニブ(gefitinib):EGF受容体のタンパク質リン酸化活性を選択的に阻害する分子標的薬。アストラゼネカ社が開発。
*3
ドライバー変異:細胞をがん化に向かわせる先導役を果たし、がんの生存を左右する遺伝子変異。BRAF遺伝子変異もそのひとつである。
*4
BRAF遺伝子:v-raf murine sarcoma viral oncogene homolog B。この遺伝子産物BRAFタンパク質は、増殖シグナルの担い手として細胞増殖に関与する(図1)。転移性メラノーマ患者の半数にBRAF V600EまたはV600Kあるいは両方の突然変異が認められる。BRAF V600E では、BRAFタンパク質のN末端から600番目のバリンがグルタミン酸に、BRAF V600Kではバリンがリジンに置き換わり、恒常的に活性化する。
*5
CDK(cyclin-dependent kinase):サイクリン(cyclin)と複合体を形成して機能を発揮するタンパク質リン酸化酵素。細胞周期を回転させるエンジンの役割を果たす。
*6
CDK阻害因子(CKI;cyclin-dependent kinase inhibitor): CDKの活性を抑制する分子群で、INK4ファミリー(p15Ink4b, p16Ink4a, p18Ink4c, p19Ink4d)とCip/Kipファミリー(p21Cip1, p27Kip1, p57Kip2)に大別される。INK4ファミリー分子は、CDK4/6のタンパク質リン酸化活性を特異的に阻害してRBタンパク質のリン酸化を妨げ、細胞周期をG1期で停止させる。これらの分子群をコードする遺伝子は、がん抑制遺伝子に分類される。
*7
RBタンパク質:網膜芽細胞腫(retinoblastoma)の原因遺伝子RBが産生する。細胞周期を通じて存在量があまり変わらず、リン酸化、脱リン酸化によって活性が調節されている。細胞周期のG1期には脱リン酸化されて活性型となり、増殖を促す転写因子E2Fと結合してその働きを封じる。DNA合成期(S期)の直前にCDK4/6によってリン酸化されると不活性型となり、E2Fが遊離する。遊離したE2Fは、相棒分子DP(E2F dimerization partner)と結合してDNA複製初期遺伝子群の転写を活性化し、DNAの複製を開始させる。RB遺伝子は、がん抑制遺伝子に分類される。
*8
メラノーマ:悪性黒色腫。皮膚の色素細胞ががん化する皮膚がんの一種。転移しやすく悪性度が高い。欧米で発症率が高く(年間推定、10万人に15〜20人)、日本人の発症率はそれほど高くない(年間推定、1,500〜2,000人)。膵がんなどと並んで治療満足度の低いがんに数えられてきたが、BRAF遺伝子の活性化変異が見いだされ、これを標的としたBRAF阻害薬が2011年に認可されると、治療満足度は好転した。ただ本薬には、皮膚扁平上皮がんを誘発することや、がんが耐性になりやすい欠点が指摘されている。
*9
druggable遺伝子:低分子化合物の標的となり得るタンパク質を産生する遺伝子。ヒト遺伝子の10% 程度がこれに相当し、その半数が何らかの疾患に関連すると言われている。
●参考文献
**1
“抗悪性腫瘍剤HER2を標的とする初の抗体薬物複合体「カドサイラ®」HER2陽性の手術不能又は再発乳癌に対する製造販売承認を取得”.中外製薬株式会社.http://www.chugai-pharm.co.jp/hc/ss/news/detail/20130920150000.html,(accessed2013-12-26).
**2
間野博行.“がん治療新時代 新手法で原因遺伝子を特定”.産学官連携ジャーナル.http://sangakukan.jp/journal/journal_contents/2013/01/articles/1301-02-1/1301-02-1_article.html,(accessed2013-12-26).
**3
伊藤勝彦.2012年欧米における新薬の承認状況.日経バイオテク.2013,3月25日号.
*1
第3回医工薬産学公連携支援シンポジウム(2013年11月7日開催)https://www.astem.or.jp/uploads/medical1107-flyer2.33MB.pdf
*2
FDAが2014年1月10日に「トラメチニブとダブラフェニブの併用」を承認した。
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