なぜ七福神は外国の神様ばかりなのか?
戦の世の商人、「神頼み」のルーツ探る
扉を叩いて祈願する
阪急電車「河原町駅」または京阪電車「祇園四条駅」から五条方面へ歩いておよそ10分、「京都ゑびす神社」は「建仁寺」西側の大和大路通沿いに鎮座しています。兵庫の西宮神社、大阪の今宮神社とともに「日本三大えびす(戎)」のひとつとされています。
しかし、京都ゑびす神社は少し趣が異なります。独特の参拝の仕方や、珍しい「名刺塚」と「財布塚」があるのです。
まず、参拝の仕方ですが、本殿に手を合わせた後、左側の拝殿に回ってトントンと扉を叩いて参拝すると願いが叶うとされています。しかもこの参拝の仕方は、ただ参拝しただけではわかりません。拝殿を注意して見なければ、左側の奥に拝殿があるなんて気づきません。理由は「ゑびす様は長寿で耳が遠いから」とされていますが、私には「神様にただ頼るのではなく、しっかり相手を見て、みずから扉を叩いて話をしなければならない」という商売の基本を示されているように思いました。
さらに入り口に近い右側に「財布塚」と「名刺塚」があります。これは古い財布と名刺を供養する塚で「財布塚」には経営の神様・松下幸之助さんの名前があります。
なんと、「財布塚」は松下幸之助さんが寄進されたものだそうです。一方、名刺塚は京都実業界の重鎮で105歳の長寿をまっとうされた吉村孫三郎氏の寄進です。商売にはお金を守る財布と人脈をつくる名刺は大切だと、改めて気づかされます。
「京都ゑびす神社」は鎌倉時代の1202年(建仁2年)、栄西禅師が「建仁寺」を開山したとき、鎮守として建てた神社です。その背景には次のようなエピソードが伝えられています。
栄西禅師が宋に留学して虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、日本に帰ろうとした1191年(建久2年)、暴風雨に遭い遭難しそうになったところに恵比寿神が現れ、助けられたのだそうです。帰国後、さっそく臨済宗の教えを日本に広めるため京都に禅寺を建てようとしましたが、当時の京都は比叡山延暦寺の勢力が強く、禅寺を開くことができませんでした。困った栄西禅師は鎌倉に下って将軍のもとに身を寄せ、北条政子の支援も得て、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の開基で日本初の禅寺「建仁寺」を開山したのです。宋から帰国して11年が経っていました。
栄西禅師にとって建仁寺は都にようやく開くことができた禅寺だったのでしょう。宋からの帰りに救ってくれた恵比寿神に、建仁寺を守ってほしかった気持ちがわかる気がします。
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