BL02B1(単結晶構造解析)
【ポイント】
○放射光X線回折実験と価電子密度分布を得られる新しい解析法により、化学結合の電子状態の直接観測に成功。
○教科書的な種々の結合により構成される分子軌道の詳細も解明。
○分子を構成する化学結合の量子力学的な電子の本来の姿を解明。
名古屋大学大学院工学研究科の原 武史 博士後期課程学生、澤 博 教授らの研究グループは、愛媛大学大学院理工学研究科の内藤 俊雄 教授、高輝度光科学研究センターの中村 唯我 研究員、および北海道大学との共同研究により、大型放射光施設SPring-8注1)におけるX線回折・散乱実験と第一原理計算によって、これまで誰も見たことがなかった有機分子の価電子分布を観測しました。この結果、化学結合という化学の基本問題を可視化しました。
原子は、原子核とその周りの電子雲で構成されますが、量子力学的には離散的な軌道状態をとります。分子は構成原子の電子軌道間の相互作用によって結合し安定化します。有機合成手法の発展によって多様な機能性分子が数多く開発され、基本となる化学結合も多様性を持つことが近年注目されています。本研究では、よく知られた分子中の化学結合の様子を実験的に直接観測し、さらに量子化学計算との比較によってその詳細を解明しました。この手法は今後、化学結合の本質を理解し、機能性材料の設計や反応メカニズムの解明に貢献することが期待されます。
本研究成果は、2024年7月17日付 アメリカ化学会の学術誌「Journal of the American Chemical Society」電子版に掲載されました。
論文情報
雑誌名: Journal of the American Chemical Society
論文タイトル:Unveiling the Nature of Chemical Bonds in Real-Space
(実空間における化学結合の本質を明らかにする)
著者:原 武史(名古屋大学)、長谷部 匡敏(北海道大学)、常田 貴夫(北海道大学)、内藤 俊雄(愛媛大学)、中村 唯我(高輝度光科学研究センター)、片山 尚幸(名古屋大学)、武次 徹也(北海道大学)、澤 博(名古屋大学)
【研究の動機】
原子はプラスの電荷をもつ原子核の周りをマイナスの電荷をもつ電子が取り巻いています。しかし、その実態は右の図1(a)のように表されるのではなく、原子核の周りを雲のように取り囲んでいます(図1(b))。その電子の振る舞いを記述するためには量子力学が必要であることも広く知られています。この電子が主役となって原子を組み立てると固体や分子が形成されます。では、原子が集まった分子の電子状態はどのように観測されるのでしょう? 右図2はよく知られたアミノ酸のひとつであるグリシン注2)分子の構造式と電子雲の予想図です。原子と同様に構成分子を取り囲むように電子雲が形成しているのでしょうか?我々は、最先端の放射光X線回折実験を行い、この分子を構成する電子分布を直接観測しました。
【研究背景と成果】
原子間の相互作用を担うのは、原子の持つ電子の中でも価電子と呼ばれる最外殻電子です。我々は、この価電子の空間分布を直接観測する手法「コア差フーリエ合成(CDFS)法注3)」を確立しました(【関連情報】を参照)。
原子は、原子番号の数だけ電子を持っています。この電子の振る舞いは少し複雑で、K殻、L殻、M殻・・・と、あるルールを満たすように電子軌道を形成します。内側の電子は内殻電子と呼ばれ、他の原子との相互作用には関わらず、自分自身の安定化に使われます。一方で、外側の電子は価電子と呼ばれ、物質の性質のほとんどを支配します。従って、その物質の性質を明らかにするためには価電子の情報を引き出すことが極めて重要です。しかし、価電子の情報だけを実験的に引き出すことが困難だったため、理論モデルや分光法により推定されてきました。
我々は、世界最高峰の放射光X線回折実験をSPring-8で行うことで、結晶を構成する原子の価電子密度だけを選択的に取り出すことを見出しました。この手法をコア差フーリエ合成法(CDFS法;Core Differential Fourier Synthesis Method)と名付けました。この手法を用いてアミノ酸の一種であるグリシン分子の電子状態を観測したのが、図3の実験結果です。観測された電子雲は図2で予想されたなめらかで分子全体を包み込むような形ではなく、切れ切れの離散状態になっています。特に拡大図の断面図のカラーマップに注目すると、明らかに炭素原子を取り囲むように電子分布が途切れています。
炭素は周りの原子と結合を作る場合には、自分自身の電子雲を再構成して混成軌道を作ります。この場合、最外殻電子であるL殻の電子は波の性質(波動関数)に基づく節を持ちます。つまり、電子の波の性質によってL殻の分布には節があるため、混成した軌道においても電子が存在しない部分が存在します。実験で得られた途切れ途切れの電子雲の分布状態が、電子の持つ量子力学的な波動性を証明しています。実際に得られた電子雲が、真の姿を捉えているか否かを確認するために、最先端の量子化学計算を北海道大学との共同研究で行い、両者が見事に一致することを確認しました。
この分子を構成する価電子密度分布が精密に理解されていることから、さらに少し複雑なシチジンと呼ばれる分子を対象として同様に実験と計算を行い、炭素二重結合の中のπ電子のみを抽出することもでき、さらに炭素間の結合と炭素-窒素の結合の様子が異なることも明確に観測されました。これらについても本研究を通して完全に解釈できましたが、詳細はこの原著論文に書きましたので、化学結合に興味のある方は是非ご一読ください。
【成果の意義】
化学の分野では、結合に関する理解やモデルが研究者によってかなり異なっています。このためか、高校や大学の入門的な化学の教科書には明確な記述がありません。この理由は、理論に対して実験的には必要な情報(波動関数の位相)が失われるために、直接比較することが難しかったためです。しかし、この研究によって化学結合の本質を直接可視化し、機能性材料の設計や反応メカニズムの解明に貢献できる可能性が拓けました。特に、π-π相互作用が機能や構造安定性に影響を与える有機半導体やDNA二重らせんなどの分野での応用が期待されます。
本研究は、SPring-8の課題(2019A0070,2021A0304)、および山田科学振興財団、科学研究費補助金(JP22H01934)の支援のもとで行われました。
【関連情報】
結晶中の強く相関する電子雲の振る舞いを解明
https://www.nagoya-u.ac.jp/researchinfo/result/2022/03/post-231.html
【用語説明】
注1)大型放射光施設SPring-8:
兵庫県の播磨科学公園都市にある、世界最高性能の放射光を生み出す理化学研究所の施設で、その利用者支援などは高輝度光科学研究センター(JASRI)が行っている。放射光とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げたときに発生する、細く強力な電磁波のこと。SPring-8(スプリングエイト)では、この放射光を用いて、ナノテクノロジー、バイオテクノロジーや産業利用まで幅広い研究がおこなわれている。今回の研究には、ビームラインBL02B1の単結晶X線回折計に、半導体検出器を搭載して国際的に見ても随一の装置を用いて測定を行った。
注2)グリシン:
人間の体内で作ることのできる非必須アミノ酸に分類される。特に血液中での酸素を運ぶ機能に関係するポルフィリンや筋肉運動に必要なクレアチン、抗酸化物質のグルタチオンや核酸のプリン体を作る物質として知られている。
注3)コア差フーリエ合成(CDFS)法:
X線回折実験による電子密度解析手法の一種。実験的に得られる全電子の情報から、内殻(コア)電子の寄与を差し引くことで、物性に寄与する価電子の情報のみを抽出する方法。
【研究者連絡先】 |
- 現在の記事
- "分子のカタチ"化学結合の可視化に成功 ~世界最高峰の放射光X線実験と超精密解析の真骨頂~(プレスリリース)
DOI:10.1021/jacs.4c05673
URL:https://pubs.acs.org/doi/full/
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