さらに、価格が高騰する新薬のなかでもとりわけ暴騰している新規の抗がん剤の価格は、「患者に財政的な“毒性”を及ぼし、薬の“副作用”である」とまで言われています。がん治療の世界的リーダーである「メモリアル・スローンケタリングがんセンター」(Memorial Sloan-Kettering Cancer Center:MSKCC)のピーター・バック博士の調査によると、1970年代から、新たに承認された抗がん剤の価格が急上昇しています。実際、1965年以来、抗がん剤の価格は約100倍に上昇。2010年~2014年に新たに承認された30種類以上の抗がん剤の価格は、月に1万ドル(約120万円)以上まで上昇していることが確認されたのです。
また、2015年8月、「テキサス州立大学 MDアンダーソンがんセンター」のハゴップ・カンタジャリアン教授と「メイヨー・クリニック」のビンセント・ラクマー教授は、医学雑誌の『メイヨー・クリニック紀要』(Mayo Clinic Proceedings)に、高価な抗がん剤に関する問題を共同で報告しました。そのなかで非常に興味深い2つの事例を取り上げ、改めて「薬価暴騰」に対して問題提起し、注目を集めました。
1つ目は、2012年10月15日付けの『ニューヨーク・タイムズ』で取り上げられた事例ですが、前出のバック教授の所属する病院「MSKCC」が、驚くほど高価なある新規抗がん剤を患者さんに提供しないことを決定したという内容です。
記事によると、2012年8月、転移性大腸がんの治療薬「ザルトラップ」がFDAによって承認されました。価格は、従来利用されていた「アバスチン」という薬が月に5000ドル(約60万円)であるのに対し、2倍以上の1万1063ドル(約130万円)でした。ザルトラップは、アバスチンと同じようなメカニズムを介して作用し、どちらも同じような効果と副作用で、どちらも患者さんの命を約1.4カ月延命させる効果が認められています。ただし、一般的に、ザルトラップに比べてアバスチンの方が少量の投与でよく、しかも、経過を管理する期間も短くてすむので便利なのです。
【https://www.mskcc.org/profile/peter-bach】
【In Cancer Care, Cost Matters,The New York Times,Oct.15.2012】
がん患者の2%
価格は半分なのに効果は同じ、しかも使用料は少なくてすむ――こうした点を考慮すると、普通なら従来通りアバスチンを使う方が断然よいと思われるでしょう。すなわち、バック教授の病院がザルトラップを拒否するのは当然のことと受け止めるはずです。
ところが、一般的に米国社会では、「新しい医療」は「より良い」に相当します。ですので、世界的ながん治療のリーダー的存在であるがんセンターMSKCCが前述のような決定を下すことは、相当に異例なことと受け止められます。
こうした抗がん剤の薬価の高騰は、現実にがん医療やヘルスケアに悪い影響を及ぼしています。
2011年の米国臨床腫瘍学会(American Society of Clinical Oncology:ASCO)の報告では、米国のがん患者さんの2%が病気やその治療によって破産に追い込まれました。がん患者の10人に1人は、年間1万8000ドル(約220万円)を治療に費やしています。
バック教授らは、もし政治家がこの問題と戦わないのなら、私たちのような主要な病院や研究者が行動を起こすべきだと宣言しています。
ちなみに、その直後、ザルトラップの薬価は半額にディスカウントされたようです。バック教授らの「宣告」に製薬メーカーも慌てたのではないでしょうか。
【http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/25792242】
【Sanofi Halves Price of Cancer Drug Zaltrap After Sloan-Kettering Rejection,NYT,Nov.8.2012】
1つの薬で年6000億円の儲け
2つ目は、120人の専門家が2013年に医学雑誌『血液』(Blood)で報告した、慢性骨髄性白血病(Chronic myelogenous leukemia:CML)に対する新規抗がん剤の価格の高騰と、古い抗がん剤の継続的な価格の高騰についてです。
このCMLの抗がん剤のうち「グリベック」と呼ばれる分子標的治療薬は、がん細胞への直接的な攻撃を得意とするため、非常に効果 の高い薬です。グリベックが登場するまでは、CML患者の生存期間は約5年と言われていましたが、いまでは90%の患者さんが5年後も健在です。
ただ、グリベックは発売された2001年直後は、生存率を50%にまで改善し、寿命を3年延長するというくらいの見通しでした。そのため、発売当初の価格は、開発コストや生存期間を考慮し、世界平均の月2200ドル(約27万円)、年額で2万6000ドル(約314万円)でした。
ところが現在は、グリベックを服用し続ければほとんどCMLの再発がないことが分かっています。おかげでグリベックは最も成功したがん分子標的療法の1つとなり、その価格は急騰し続け、2012年には年額9万2000ドル(約1100万円)まで上昇したのです。わずか10年あまりで3.5倍の暴騰です。
さらに2012年、FDAは次の世代の3つのCML治療薬としてボスチニブ、ポナチニブ、オマセタキシンを承認しました。その新薬の価格は、ボスチニブが年額11万8000ドル(約1420万円)、ポナチニブは年額13万8000ドル(約1660万円)と、発売当初からグリベックを上回る価格になってしまっているのです。
確かに、製薬会社は1つの新薬の開発に巨額の投資をしており、その技術革新にはそれなりの報酬が伴うべきです。実際、新規にがん治療薬を開発するためには、20年前後の期間と約10億ドル(約1200億円)の費用がかかると言われています。
しかし、その薬の販売で10億ドル分の利益を出した後は、単純に考えれば売れば売れただけすべてが“儲け”となります。ちなみに、前述のグリベックを販売している「ノバルティス」という製薬会社は、現在、グリベックだけで、年間50億ドル(約6000億円)の利益を得ているのです。
これらの実態を報告した120人の専門家らは、だからこそ「抗がん剤の薬価の高騰が患者に害を引き起こしている」と指摘し、「薬を買う余裕がない患者の命を救うため、薬価をもっと下げるべきだ」と訴えているのです。
【An 'Utterly Broken' Drug Market: The High Cost of Surviving Cancer,NBC NEWS,JUN.3.2015】
【http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/23620577】
「ほとんどの患者が払えない薬」
こうした薬価の異常な暴騰ぶりは、患者の治療に責任を負っている臨床医たちにも大きな苦悩をもたらしています。
たとえば、「免疫チェックポイント阻害剤」という、がん治療に大きな期待が寄せられている新しい治療薬があります。この薬価について、MSKCCで臨床医として勤務するレオナルド・サルツ医師が、2015年のASCOで次のような悲痛な報告をしました。
「この新薬を組み合わせた治療を、毎年がんで亡くなる米国人50万人に投与すると、わずか1年で実に1740億ドル(約21兆円)の薬剤費が必要になります。ここまでくると、そうした患者の治療のために、私たちの社会にはどれだけ治療費を支払えるのかの上限があることを認識せざるを得ません」
「たとえば、悪性黒色腫(皮膚がん)の治療薬『ペンブロリズマブ』は、年間単剤治療だけでも100万ドル(約1.2億円)以上になります。こんな額は、ほとんどの患者は払えません。私たち医療者には、価値のあるベストな治療を、手頃な価格で行う責任があります。つまり、より賢明になって、価値の低い治療や高価な治療は選択しないことが必要です」
「5年前、進行性の悪性黒色腫は治療不可能と考えられていました。が、日本の『小野薬品工業』と米『ブリストル・マイヤーズ・スクイブ』社が共同開発した『オボシーボ』という免疫チェックポイント阻害剤の併用で、無増悪生存期間(ある治療を開始してから疾患の悪化がなく生存する期間)が11.4カ月も延びたことは、本当に驚くべきです。臨床医として、私はこれらの薬剤を、私の患者のためにすぐに利用したいのです。しかし、これらの薬価が非常に高価すぎるという問題があるのです」
【Cost of Immunotherapy Projected to Top $1 Million per Patient per Year,The ASCO Post,July.10.2015】
日本での問題
こうした薬剤の高価格化、暴騰の問題はよそごとではなく、実は日本にとっても深刻な事態を招いています。
このオボシーボという画期的な薬剤は、日本の製薬会社が開発し、世界で初めて日本で承認されました。しかし、薬剤のマーケット情報を分析する米民間会社「EPバンテージ」によると、オボシーボの年間薬価コストは、米国での11万8000ドル(約1420万円)に対して、日本では14万4325ドル(約1740万円)と、300万円近くも高いのです。
日本の場合、政府が薬価について規制してきましたから、長年、米国に比べて一般的な薬価は低めでした。EPバンテージによると、日本の薬価は米国よりも40%、ドイツより20%安く設定されています。また、日本では薬価規制は2年ごとに再考されるため、たとえば、日本の製薬会社が開発した薬剤の売上トップ10の薬価は、平均して19%価格が低下しています。
ところが、オボシーボについては、なぜか米国での価格より高く設定されました。日本では高額療養費制度がありますから、患者さんによって定められた自己負担額を超えた差額は払い戻されますが、国の保険財政は当然苦しくなるでしょう。
また最近、日本の製薬会社による新薬の研究開発が減っていることも気になります。医学雑誌『医薬品の発見と治療』(Drug Discoveries & Therapeutics)に発表された東京大学大学院薬学系研究科・薬学部の木村博士らの論文によりますと、日本、欧州、米国の中で、日本が最も、研究開発に費やす費用が減少しているのです。
薬の研究開発が遅れると、海外の薬の輸入に依存しなければなりません。すると、日本は薬価の規制がコントロールしにくくなり、薬価の上昇を招きます。
現在、世界第2位の医薬品市場である日本は、海外の製薬会社にとって、非常に魅力的な市場です。このままですと、海外の製薬会社に、市場拡大のより大きな機会と利益をもたらすでしょう。
【Opdivo’s Japan pricing hints at global potential,EP Vantage,Sep.1.2014】
【http://info.evaluategroup.com/rs/evaluatepharmaltd/images/JPSVP2015.pdf】
【http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/24647159】
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